こんにちは!といってももうこんばんはの時間なので、頑張って早めに書いていきます!
今回は、去年もこのブログで紹介した岸本豊さんと、岸本さんの作った中山道69次資料館の内部などについて書いていきます!シリーズものになるはずです!
目次
岸本さんてどんな人?
さて、それでは、去年投稿した岸本さんとのお出かけについて、少しおさらいしていきましょう。詳細は下の記事に書いてあります。他の関連記事も一番下に貼っておきます。
岸本豊さんは、以前徳島で社会科の教師をしていた方です。今は軽井沢近くの追分という場所で、<中山道69次資料館>を開設し、そこの館長をなさっています。とっくのとうに定年退職されていますが、色々と精力的に活動されていて、いつあってもキラキラしてます…
去年あった時は、コロナ休校の直前に追分宿から小田井宿まで7kmほどの距離を歩きました。中山道についての造詣がとてつもなく深い方で、本も何冊も書いています。自分で資料館を作るんですから、その情熱の凄さは一目瞭然ですね…
それでは、岸本さんに会う前に…
今回、その岸本さんとまたお会いしてきました!タイムスケジュールはこんな感じです。
- 11:30過ぎ→追分のお蕎麦やさんに到着。混んでいたので近くで待機…
- 12:00頃→お蕎麦やさんに入る!家族でそば&天丼セットを頼む
- 1:30前→追分を少し歩いて、時間を潰した後に雨が…!資料館へ出発!
- 1:30~3:30→資料館の中&外を散策、お話を聞きながら中山道について学ぶ
- 3:30~4:00→4時過ぎごろまで岸本さんの御宅でお庭散策…またパワーアップしてますよ⁈
今回は、(お蕎麦についてと、)資料館について書いていきます!
長野のお蕎麦って美味しいんです!
まず、お蕎麦について!みなさん、長野に来たら絶対にお蕎麦を食べてください!私は、東京にいた時は「そばなんてみんな同じじゃね?」って思ってました。こっちに来てからそばを食べた時の衝撃と言ったら… こしの強さも、角の立ち具合も、全く違うんです!思い出補正がかかっている可能性も否めませんが、とにかく本当にそばが美味しいです。
今回私がいったのは追分にある『ささくら』というお蕎麦やさんです。開店が11:30なのですが、開店少し後に行ったところ、16番目の客になりました。店舗内に10組くらい入れるので、開店すぐに行っても待たなきゃ食べられない、ということです。
でもそれも納得できるくらいには、『ささくら』は美味しいです。何より、いわゆる観光地値段ではないので地元民でも観光客でも安心して食べられると思います。
油やっていうギャラリーもおすすめ!
ささくらで待っている間、『油や』という『ささくら』のすぐ側にあるギャラリーを併設している旅館に遊びにいきました。堀辰雄(『風立ちぬ』を書いた小説家)が初めて奥さんにあったところがこの『油や』らしいです。中には古本屋(純文学や文学や信濃関係多め)や陶磁器・ガラス製品などのギャラリーがあります。色々なレコードがあって、見るのが面白かったです。永遠のトップアーティスト:マイケル・ジャクソンのレコードが見たかったので、探していたのですが結果見つからず…
カーペンターズのレコードなどもあったし、ビートルズのCDも多くありました(さすが軽井沢!)。今回はいきませんでしたが、その側に追分コロニーというところもあるらしいです。そこも古本屋らしいので、興味があったら行ってみてください!
さあ、本編の前の番外編(食べ物は大事です)が終わりました!
ここからは、資料館の中を豆知識とともに書いていきます!
資料館に入りました!
まず、玄関から入ったところ。大人は500円、高校生以下は200円、5名以上の団体には団体割引があります。
玄関に入ると、正面には中山道の宿場町を描いた日本地図と、洗馬を描いた広重の浮世絵があります。
この地図だと写真のため見難いので、ネットから探してきました!
軽井沢付近の中山道は?
資料館があるのは、20番の追分宿です。ちなみに、今大河ドラマで注目されている「青天を衝け」に出てくる渋沢栄一の出身地は10番の深谷宿。今ドラマが取られているのは15番の安中宿の方らしいです。なので、深谷からは絶対に見えないであろう山がドラマには写っているんだとか…(全部岸本さん情報)
また、17番坂本塾から18番軽井沢宿までの間に、碓氷峠があります。碓氷峠は漫画「頭文字D」にも出てくる名所で、めがね橋や峠の釜飯で有名な『おぎのや』があります。
峠を登ることにより標高も跳ね上がり、69次のなかで一番標高が高いのは追分宿で、1000m付近です。
中山道は、江戸の日本橋から京都の三条大橋までですが、69次にこの二つは含めません。「次」というのは、荷物をつなぐという意味になるので、最初と最後は含めないそうです。
中山道については、詳しくは前述したブログを見てください!追分宿から歩いています!
甲州街道は大名は使わなかった!
また、中山道の下には甲州街道があります。この甲州街道は、中山道よりも短いのですが、それでも往来する割合は2:1だったとか。
なぜかというと、幕府が「大名行列は中山道のみ」と命令していたからです。甲州街道は、どこかの大名が江戸に攻めてきた時用に用意していた、一時退却のための道路でした。
しかし、甲州街道を使うことが許されていた藩が三つだけあります。それが、諏訪の高島藩、伊那の高遠藩、飯田藩の三つです。以前高遠の桜を見に行ったことがありますが、とても綺麗でした!
この3藩は3万石ほどの小さな藩のため、わざわざ遠回りせずとも甲州街道を使っていい、という許可が出ていたようです。
さて、ここで名前が出てきた高遠藩ですが、面白い豆知識がありました。
高遠藩にいた、家光の弟、家康の孫とは…?
江戸幕府2代将軍の徳川秀忠ですが、彼の正妻は信長の名であるお江の方。江はかなり嫉妬深い性格だったのか、側室の存在を許しませんでした。ですが、秀忠の乳母に仕えていた女性との間に子供が生まれます。見つかったらいけないということで、彼は高遠藩の時の藩主保科正光が預かることとなります。そこで、保科正之として成長しました。
秀忠の死後、参勤交代で知られる3代将軍徳川家光が、どうやら自分に弟がいるらしいと知ります。探したところ、高遠の保科正之が該当する…
自分の異母兄弟となる血筋なら、高遠藩は弱小すぎる!ということで、正之はその後会津藩主となることに。この時「松平」の名を家光は用意しましたが、正之は保科家への恩を忘れず、正之の息子も保科の名をつぎました。三代目からは時代も離れたのでかつ平の名をつぎ、「会津松平家」が完成しました。幕末には幕府側として最後まで戦うこととなります。
最後に!
…他にも色々ありましたが、とりあえずここまでが岸本さんが資料館の「入口」で話してくれたことです。あ、入口とは言いましたがもちろん屋内ですよ!
情報量がすごすぎませんか?何かを見ているとかではなく、完璧にこちらのニーズに応えてくれます。弟が歴史好きということも覚えてくれていました!なんというか、やっぱりこの方すごいな…と思いました。
この記事で資料館の中に入れるかな?とも思いましたが、今回は時間的にも字数的にもここでやめておきます。多分次か、その次かでシリーズ終わります。見て行ってくださると嬉しいです!
最後までお読みくださりありがとうございました。今回は、資料館に行く前に行った場所と、中山道について(中山道関係の豆知識)について書いてきました!やっぱり岸本さんすごいです…!
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