こんにちは。この頃はコロナウイルスの影響で色々学校でも大変ですが、今回は先日家族で出かけた時のことを書こうと思います。
私の家族は、先日長野県の軽井沢付近の【中山道】を歩いてきました。お昼過ぎに出発して、終わった時には暗くなっていました。途中お茶を挟んだものの、時間もかかり実際の距離より長く感じられました。撮った写真も結構あったので、写真を挟みつつ行ったところを紹介しておこうかなと思います。長くなりそうなので2つから3つに分けて投稿していきます!
今回中山道を歩いた時に私たちを案内してくださった方は、父の同僚に紹介してもらった岸本豊さんです。岸本豊さんは、徳島県の高校で社会科の先生をされていた方で、今は〈中山道69次資料館〉の館長をしてらっしゃいます。もう70代後半らしいのですが、全くそんなことを感じさせないほど若々しい方でした。やっぱり自分のやりたいことをやっていたり、熱心に取り組んでいるものがあると若く見えるんでしょうか…
中山道69次資料館は、軽井沢の追分にあります。今回は、資料館のある追分から小田井というところまでの中山道を歩きました。距離で言えば7キロにもならないのですが、途中で岸本さんのお宅でお茶をしたり、小田井城跡に行ったり、色々寄り道をしたので最終的には5時間ほどかかりました。
中山道自体は、社会科でも学びますが、五街道のうちの一つで京都と江戸を内陸を通って結ぶ道路です。69個の宿場があり、山道が多かった割に通行は盛んだったそうです。
追分、小田井周辺の宿場は、
という感じになっています。
最初にスタートしたのは追分宿の近くの追分の一里塚でした。
一里塚は、街道の両端に置かれるそうです!中山道の両端に置かれていた一里塚ですが、国道に斜めに横断されたことで一つは移動され、一つは端っこが切り取られていました。ここでびっくりしたのが、一里塚が本当に「塚」だったことです。東京に住んでいた時は、稀に一里塚を見ることがあっても「一里塚跡」として小さい柱が置かれている印象でした。なので、一里塚は標識のような小さい柱だと思っていました。が、本来は写真のように大きくて盛り上がった形だそうです。東京のものが柱だったのは全て撤去されていたからなのかなと思います。
一里塚から中山道を歩くと、まずは浅間(あさま)神社の横に行きます。


浅間神社は、浅間山の噴火を止めるために作られた神社です。山梨などにある浅間(せんげん)神社は富士山を対象とした神社だそうです。昔、大きい火山などは全て「浅間」と呼ばれていて、「あさましい(ほどの被害をもたらす)」ということで浅間山も富士山も浅間と呼ばれていたそうです!ですが、この神社は浅間山を祀っていて、背景に雄大な浅間山がしっかり見えます。芭蕉が読んだ俳句の句碑も残っていましたが、とても大きい句碑でびっくりでした。
追分や軽井沢のあたりは明治時代から別荘地として有名だったこともあり、長期滞在する外国人が多く、洋書がよく古本屋に売られたりしたそうです。その名残として、通りにいくつか本を置ける場所がありました。
いらなくなった本を置き、面白そうな本があったら持っていく… BOOK-OFFなどは子供だけだと本を受け取ってもらえないので、このシステムはいいな〜と思いました。
近くの川などを見ながら歩いていくと「堀辰雄文学記念館」が見えてきます。
「風立ちぬ」や「不器用な天使」などの作品で有名な作家さんです。記念館は、堀辰雄さんとその奥さんの邸宅だったそうですが、今はその旧居や書庫、他にも常設展示などがあるそうです。記念館の入り口にある門は、追分宿の本陣に使われていた門だそうです。とても立派な門で、少し中も見えましたが庭も綺麗でした。
そして、少し歩いて追分公民館にいくと、また地域の文人ということで立原道造さんの詩が銅板(?)に彫られていました。
立原道造さんは昭和初期に活動した詩人、建築家です。立原道造が書いた「村はずれの歌」という詩では、
右は越後に行く北の道
左は木曽へ行く中山道
という部分があります。これは、追分宿が北国街道(北陸道)と中山道との分岐点だったことを表しています。
そして、ようやく追分宿の脇本陣(現;油屋)や茶屋があった場所に到着しました。
当時、宿の出入り口には枡形と呼ばれる直角に曲がった道路がありました。これは江戸に攻め入られた時に各宿で迎え打てるように作ったシステムで、二回直角に道路を曲がらせていたそうです。追分にあったのは、枡形が作られている出入り口近くの茶屋「つがるや」でした。津軽から来た人がやっていたのでしょうか…
次は分去れの道標(わかされのみちしるべ)にいきました。
そこは、北国街道と中山道の分かれ道で、道しるべには「右 これより北国街道 左 これより中山道」と記されていました。(私の中の一里塚はそれこそこの道標のような形のイメージでした…)
また、道しるべの後ろには子育て地蔵というものが設置されていて、
さらしなは右 みよしのは左にて
月と花とを 追分の宿
という文が刻まれていました。
右の北国街道に行けば、名月で有名な更科へ。左の中山道へ行けば、吉野の桜が近くにある京都へ。月と花とを分けるのは、北国街道と中山道を分ける追分の宿。
という意味らしく、すごい綺麗な言い方だなと思いました。
この地蔵は、台座の上に設置されているのですが、一回動かされたことがあります。明治11年に明治天皇が北陸を巡行されたさい、この道を通りました。当時天皇は「現人神」と呼ばれ神として扱われていたので、「地蔵が神を見下ろす」事態を避けるため、台座から一時外されてしまったそうです。
道しるべを通り少し歩くと「中山道69次資料館」に着きました。ここは、案内してくださった岸本豊さんが設立した資料館で、岸本さんが館長をなさっています。ちなみに書いておくと、ここまでに書いた豆知識は全て岸本さんが教えてくださったことの一部です!


資料館は夏季に開いているので、近くに行ったら是非入ってみてください!今回は冬のため中には入れなかったのですが、庭を周りました。中山道がジオラマ化されている本当にすごいお庭です。歩けるくらいの小道になっていて、川なども落ち葉などを利用して再現されています。それぞれの宿場の名前もしっかり書かれていて、山なども再現されています。橋も木橋の場合は木で、石橋の場合は石で作られていて、宿場らへんで有名な木などがあると、その木が植えられています。例えば、染井村の近くに中山道が通っているのですが、ソメイヨシノが一本植えられていました。桃配山という山の「天下を取れる石」の故事なども紹介されていて面白かったです。


資料館がある場所は、ちょうど渓斎英泉の浮世絵が描かれたであろう場所となっています。資料館の前にある道は、小田井の方から追分に来る時の上り坂がやっと終わり、宿が見えてくることから「笑い坂」と言われているのですが、浮世絵に出てくる道の角度から考えると、資料館前から描かれたとしか考えられないそうです!岸本さんは、資料館を作った後でこれに気づき、浮世絵と同じようにするため松を植えていました。
資料館の庭を巡った後は岸本さんのお家にお邪魔したのですが、ここも本当に凄かったです… この次はまた新しい記事で紹介しようと思います。今回は、追分の一里塚〜中山道69次資料館までを歩いた順に紹介しました。ここまでは、距離でいうと2キロもないくらいです。まさか2キロの間にこんなに見応えがあるところがあるとは… 知識があるってすごいなって思いました。
最後までお読みくださりありがとうございました。次の記事も続きを書くのでぜひお読みください!
http://nakasendo69.sakura.ne.jp/ →中山道69次資料館のHP
https://www.town.karuizawa.lg.jp/www/genre/0000000000000/1000100000045/index.html →堀辰雄文学記念館や追分宿郷土館についてはここから
追記〜続き・関連記事はこちらです!