うぐいすの音

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「宗教」について考えてること&『ダライ・ラマ 未来への希望』を読んで

 こんにちは!

今回は、読んだ本とともに、『宗教』に関して書いていこうと思います!一応書いておくと、個人の考えだし、全て裏付けがあるわけでもありません。今まで聞いた他の人の言葉から、自分が「宗教」と聞いたときに思うことを書いていきます。

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目次

 

ダライ・ラマ 未来への希望』で強調されていたこと

 まず、今日この記事を書いたきっかけは、ダライ・ラマ14世の書いた『ダライ・ラマ 未来への希望』という本を読んだことです。同じ著者の他の本を探していたのですが、この本しか図書館になく、読むこととなりました。

 この本はチベット亡命政府において元首を務めているダライ・ラマ14世によってかかれ、マリア・リンチェンさんが訳した本となっています。

 

 この本は、あまり今まで読んだことのなかったタイプですが、色々な講演をもとに書かれた本なので読みやすかったと思います。多分、仏教の基礎知識があったり、仏教に興味がある人ならとても楽しく読めると思います。私は、確かに面白かったし色々なことを学べたのですが、今はあまり必要ではないかな、と思いました。悩み事ができた時とか、もう少し成長した時とかに読んでみたいです。

 ただ、同じ著者の作品があったら借りてみようかな、と思うぐらいには私も楽しめました。

 

 強調されていたことは、

20世紀は多くの人が「戦争を通じてでなければ結果的な解決には至らない」という考え方だったが、21世紀は問題解決に「対話」という概念が使えると周知されている。対話のためには、相手の人権や意見を尊重しなければいけない。

そのためには相手に対する慈悲の心が必要となってくる。

慈悲の心は、結果的に自分の心の豊かさを産んでくれる。

 

といったことです。自分で勝手に略したので、興味がありましたらぜひ読んでみてください。

 

 

 

自分が関わってきた宗教 in Japan, in Britain

 さて、今回は、自分の宗教観のようなものについて書いていきます!といっても、正直自分から宗教についてしっかり考えたことがないので探り探りですが…

 

 まず、私が初めて意識した宗教は、仏教です。仏教と神道は日本人の多くが信仰している宗教です。私は、手塚治虫の『ブッダが好きで、小学生の頃によく読んでいました。また、それが高じてブッダの伝記やアナンダについての本を読んだこともあります。

 

ブッダ全12巻漫画文庫 (潮ビジュアル文庫)

ブッダ全12巻漫画文庫 (潮ビジュアル文庫)

  • 作者:手塚 治虫
  • 発売日: 2000/04/01
  • メディア: 文庫
 

 

 …というのが私の最初の宗教に関する思い出なのですが、どうやら本当は少し違ったようです。私は、小さい頃からすごい本が好きで、絵本っ子でした。保育園に行く電車の中で、絵本の読み聞かせ等もしてもらっていたのですが、その中でのお気に入りが「聖書の絵本」だったそう…

うちの親がそれをピンポイントで勧めてくるわけないので、私が勝手に好きになったそうですが、かなりお気に入りだったそうです。正直全く覚えていません…

 つまり、本当に宗教の知識が入ったのは3歳とかの時で、実際に宗教の成り立ち(そこまで言えるほど難しいものでもないですが)を意識したのは小学校低学年だった、ということです。

 

 その後、なぜか私はイギリスに行く直前にキリスト教に興味を持ちました。親によると、

「お墓的に私は仏教徒なのだろうけど、仏教徒である理由がわからないから他の宗教を知りたい!

知っている宗教は仏教、イスラム教、キリスト教だからキリスト教の教会に行ってみたい!」

というめっちゃ適当というか、バカというか、子供っぽい理由から近所のキリスト教の教会に数回通っていました。

 自分の中でキリスト教のイメージは、聖☆お兄さんという漫画に出てくるイエス・キリストのイメージが強く、そのあとは普通にキリストの伝記とか、教科書に出てくることとかしか知らなかったと思います。

そうやって教会に通う中で、キリスト教の中にもカトリックプロテスタント正教会や、もっと細かくするとバプティスマなど色々な宗派があると知りました。仏教の宗派に関しては、歴史の本を読んでいる間に色々出てくるので知っていましたが、この時に「宗教は全て奥が深い」という当たり前のことを改めて認識したと思います。

 

 そして、イギリスに行った時の一番仲が良かった友達で、今も連絡を取っている人はムスリムです。初めて家の前で会った時、私はちょっとテンパったんでしょうね…

「お母さん!なんか民族衣装みたいなの来た人がいる!」

と、家に駆け込んだそうです。民族衣装じゃなくて、ヒジャブですね…

なんか、今考えるとどんだけ失礼なんだ、というか、どんだけ無知なんだ、と恥ずかしくなります。結局、その友達とは本当に仲良くなってお泊まり等もしました。また、イスラム教のみでなくシーク教ヒンドゥー教、そのほかにも色々な宗教の人に会えたので、イギリスでやっぱり色々な宗教を知れたし、そういうものに対する抵抗感はなくなったんだろうな、と思います。

 

 そうして、色々な宗教があると知るなかで、イギリスで新しい趣味を見つけました。それが、ルネサンス絵画の鑑賞です。初めて行ったのはロンドンのナショナルギャラリーで、そこからヨーロッパの美術館をめぐるようになりました。ルネサンス絵画は、多くが宗教画で、聖書の色々なシーンを描いています。私は、そう行った聖書のシーンを把握した上でアトリビュートなどを考えながら絵を見るのがすごい好きで、日本に戻ってからも聖書を読むようになりました。

 なので、キリスト教に関する知識は他の宗教より多いとも思います。教えに関しても、自分で考えたことがあります。かと行って、キリスト教だけなのかというとそういうことではなく、般若心経を覚えようとしたこともあれば、東京のモスクに行ったこともあります。神道の本を読んだこともあるし、本だけでいいならそれこそシーク教ヒンドゥー教など色々な本をイギリスで読みました

 

 その中で、しっくりくる教えがあったかといえば微妙だし、実際に神様がいるかと問われればそうとも思えないです。でも無神論ではないし、無宗教者というのが一番正しいのかも。それでも英語のレッスンとかで、なんの宗教かと聞かれれば「一応仏教」と答えます。それは、自分が実際に仏教からなる日本の伝統文化に習い、家も仏教のお墓だからです。また、それを否定するだけの考えも持っていないので、一番興味を持っていてもキリスト教の名前はもちろんあげません。

(追記を一番最後に書いています)

 

「日本人は真剣な仏教徒ではない」って日本だけ?

 そもそも、よく「日本人は仏教を真剣に信仰しているわけではない」という言葉を聞きますが、それは「日本人」のみのことのなのでしょうか。

 

 思い出してみれば、イギリスでは日曜日に教会に行ってないキリスト教徒なんて学校にいっぱいいたし、ラマダーンでもしっかりおやつを含めたご飯を食べるムスリムもいました。授業で異文化交流としてシーク教の小さな教会のようなところ(寺院ではなく、その地域のシーク教の人たちが拠り所としていた建物でした)に行った時も普通にシーク教ではないクラスの人も全員ついてきたはずです。

 

 キリスト教でもレントの時に何か断食する、という人はクラスの半分程度でしたし、宗教にあまり頓着していないのは日本だけではないのではないでしょうか。

日本人もお寺や神社で参拝するし、お盆や初詣などのイベントに参加します。お守りをつけたり厄払いをしてもらったり、お墓まいりも行くので、意識しないだけで他から見ると「それ宗教行事じゃない?」ということを意外としているのかもしれません。

 日本にいると、そもそも仏教・神道以外の宗教を信仰している人が周りにあまりいません。というか、自分が信仰している宗教について「私はキリスト教徒です」なんてあまり大げさには言わないと思います。だからこそ、周りに一人でもいるとその人がやっていることが「キリスト教徒」を表したものになります。

 それに加え、日本では特にキリスト教由来のイベントが根強いため、「クリスマスの日は教会に絶対行く」などの一部の情報が広く知られています。

だからこそ、「外国からの行事(クリスマス)→キリスト教、日本→特にない」と行った認識になるのかもしれません。

 

 時間があるときにでも、宗教についてまたよく調べ自分の立ち位置を探していきたいです。無理に探すものでもないし、無宗教なら無宗教でも全然いいと思います。でも、よく知らないままに「自分はどの宗教でもない」というのは少し負けた気がします… どうせなら、自分が今まで無意識にやっていた日本人の習慣についてもどのくらい宗教的なものなのか調べ挙げたいです。そうしたら、今まで持っていた仏教や神道に対する考え方も少し変化が出てくると思います。

 …と書いてきましたが、イギリスにいたときにより宗教観を自分のアイデンティティの一つとして考えている人は多かったので、実際日本の方が頓着はしていないのかもしれませんが…それでも、特に頓着していない、というわけではないのでは、と少し思ったので書いてきました。

 

 最後までお読みくださりありがとうございました。これからも色々調べていきたいです!

 

追記

自分のことを「無宗教者」と書きましたが、それを訂正します。このブログを読んだ親から、私が忘れていた言葉を思い出させてもらいました。

私は自分のことを「不可知論者」だと思っています。不可知論とは、人知を超えた存在のものは扱わない、という立場を取っているものです。「扱わない」という言葉の中には、「肯定・否定の態度を取らない」という意味のほか、「問題そのものを認めない」という立場もあります。無神論では、「神は存在しない」と言われますが、「不可知論」の場合は神の存在は証明できないので論じない、と言われています。

まだ、自分が「不可知論者」なのか「無宗教」なのかよくわかっていませんが、昔は「自分は不可知論者だろう」と思っていたので、ここでも「自分が不可知論者である」と書いておきます。