こんにちは。この頃、一週間が過ぎるのが本当に早いというか、1日の密度が全然ない気がしています。もっと密度を濃くしたいのですが、やることがすごく少ないわけでもなく…
やることを1日1日かえたらその日が印象に残りやすくなるんでしょうか。もう残された時間が長いわけでもないので、工夫していきたいです。
目次
- 本の紹介!
- 好奇心を大事に!そして気になったことは突き詰める!
- 自分がやりたいことをやり、その態度を絶対変えない
- 仕事熱心な人ってそうなるかも…
- 原爆について:ファインマンさんはマンハッタン計画に参加しています
- まとめ:PCが不調です…
本の紹介!
今回は、前回書いた『ご冗談でしょう、ファインマンさん』の感想二弾目を書いていきます!
この本は、リチャード・P・ファインマンさんが自ら書いた自伝(エッセイ?)で、一冊300ページほどの上下巻となっています。
リチャード・P・ファインマンさんは、アメリカの物理学者だったかたで、色々な大学で教鞭をとり、1965年には量子電子力学の研究で、ノーベル物理学賞を共同受賞されています。
前回の記事では、ファインマンさんの天才っぷりを書いていきました。今回は、そう言った見習いにくいところではなく、見習いたい、と思ったところを書いていきます。
好奇心を大事に!そして気になったことは突き詰める!
まずは、好奇心を大事にして、始めたことはやり続けるスタイルです。
彼は、もともと好奇心がとても強く、その好奇心に従う人でした。
小さい頃から大工仕事のようなことをして、10代はじめのころにはもう「実験室」を自分の家で作っていました。例えば真空管を使った実験(これは火事になりかけました…)や、壊れたラジオを買ってきてそれを直したり。
そのラジオを直す技術が注目され、ホテルに突然呼ばれてラジオを直したこともあります。また、バイト先のつながりでラジオが壊れた人の家にも訪問して、ラジオを直しました。
その時は、ラジオの持ち主が「ラジオを直すにはいじくりまわす」という考えだったおかげで、じっと考えただけで若造のファインマンがすぐにラジオを直したことから「世にも稀な天才」とまで吹聴されたそうです。
そして、この時から持っているのが、例え午後いっぱいかかっても考えることをやめない根気力です。自分が今まで調べて分かってきたことを、時間がかかるからといってやめたくない、やめられるものか、といった心境が書いてありました。
代数や三角法の自分なりの解き方も、高校時代に編み出したものです。どうすればもっと早く解けるのか、という考えから試行錯誤して、自分なりに解き方を考えました。中には、教科書に載っているものより効率の良い時方を考えついたこともあったそうです。
自分がやりたいことをやり、その態度を絶対変えない
そして、自分がやりたいことをやる、というところ。
これは、誰にでも率直にものを言える性格も重なって成り立つものだと思います。
前回の記事でも書いた絵画やドラムの才能。あれらも、もちろん努力しなかったわけではなく、最初からとてもうまい、というような描写は、少なくともありませんでした。
それでも、自分がやりたいと思ったことをどんどん進んでやることによりどんどん上達して、バレー団の演奏を任されたり、個展を開いたりしていきます。
他にも、すごいと思ったのは「13回以上サインしない」という話です。
役所相手に何か講演をしてお金をもらうとなると、サインを何回もしなければいけなくなります。それが面倒臭いと思ったファインマンさんは、
「絶対13回以上はサインをしなくていいというのがその条件だ。講演料の小切手のサインも含めてだよ。」
という条件を出します。
最初は、そこまでいかないだろうとタカをくくっていた役所の担当者ですが、講演を行うまででなんと12回もサインをしなくてはいけませんでした。
この後講演料を受け取るまでが、問題です。講演を無事に終えたという書類にサインしなくては、小切手にサインすることができません。でも、どちらもにサインをするとサインの合計回数が14回を超えてしまいます。
ファインマンさんは、サインの上限回数をこえるんだったら講演料を受け取らなくてもいい。と言って、これで一件落着かと思ったのですが… 役所の方で講演料として用意したお金ですから、絶対に受け取ってもらわないと困ります。
この件、最終的に「役所の方、本当にお疲れ様です…」と言った感想を抱きます。ぜひ、結末は本を読んでお確かめください!
正直、サインが一回増えただけなんですから、社会人ならそれくらい融通を利かせてもいいのではと思いますが、こう言った何事にも同じ姿勢を貫き通す姿が研究等にも役立ってきたのかな〜、と思いました。
この時は自分が講演を任された立場でしたが、ファインマンさんは若い時にも同じようなことをやっています。
自分の専門である物理学に関して、何か意見の相違等があったら、どれだけ高名な学者の方であっても「それは違う、おかしい」と言葉を繕いもせず批判し、真っ向から議論をふっかけます。
最終的には、そのファインマンさんの態度を求めてファインマンと自ら話をする、という人も出てきました。
自分が貫きたいことについてなら、本来なら気を使わなくてはいけない人だとしても気を使わず、絶対に貫き通します。そこは、本当にすごいな〜と思いました。
完璧に真似するのは常識人としては少し難しそうですが、言い方を工夫できるようになれば、姿勢を貫き通す姿というのはとても大切だと思います。程度はもちろん気をつけますが、見習っていきたいです。
仕事熱心な人ってそうなるかも…
それでは、ここからは「天才っぷり」でも「尊敬したいところ」でもなく、気になったエピソードを紹介していきます。
まずは、一番目の奥さん、アーリーンがなくなった時の話。
ファインマンさんは、何回か結婚をしています。アーリーンとは、1943年に結婚しました。ファインマンが25歳の時ですね。
ですが、1945年、ファインマンさんがロスアラモス国立研究所で研究を進め、離れ離れで暮らしている時に、結核で彼女はなくなってしまいました。研究所の検閲の幅を知るためなどに、手紙で暗号を書いていったエピソードなどは前の記事でも紹介しましたが、その手紙をやり取りしていた奥さんです。
アーリーんは、7年前ほどから結核を患っていて、彼女の死も結核によるものでした。容体急変の知らせを受け取り、何回も車が故障するなどのハプニングを超えて病院にたどり着き、その数時間後の臨終に立ち会えたそうです。
アーリーンの死のあと、ファインマンさんは最初あまり感情的にはなりませんでした。普通こうなるだろう、と言った感情があまり出てこなかったそうです。もちろん楽しくはなかったけど、7年前から覚悟はしていたことだったため、動揺はしていなかったのだとか。
研究所に戻った時も「家内は死んだよ。で、プログラムの方はどうなってる?」で済ませて、周りからの気遣いを自ら拒否しました。
ですが、数ヶ月後にデパートで服を見ている時に悲しみの波が一気に押し寄せて、涙がその時に初めて溢れたそうです。本人も、「自分の感情をコントロールしていたのに違いない」と本の中で言っていました。
私と母親でこのエピソードについて話した時に、「若い頃だったらこうなってそうだよね、」と言った人を共通で知っていたので、より身近なエピソードに感じました。もちろん、若い頃ならという話で、今はそうなるとは思っていません。
でも、仕事人間というか、家庭よりも仕事を大事にする時期って色々な人が体験すると思います。特に、何かにのめり込みやすい人とか、仕事に情熱をすごく持っている人なら、そうなりやすいのではないでしょうか。このエピソード、ファインマンさんは極端な例かもしれませんが、あまり稀なものではない気もしました。少し考えさせられたエピソードです。
原爆について:ファインマンさんはマンハッタン計画に参加しています
そして、最後にもう一つエピソードというか、考えたことを書きます。デリケートな話題のため、読者の方は賛成できない、という人もいるかもしれません。が、自分なりに思ったことを気をつけて書いていきます。
このリチャード・P・ファインマンさん、アメリカの物理学者で、上記の通り第二次世界大戦中は研究所にいました。このことからもわかるかもしれませんが、ファインマンさんは、アメリカ、イギリス、カナダが原子爆弾開発のために科学者、技術者を総動員した計画である、マンハッタン計画に関わっています。
最初、ファインマンさんはこの計画に関わることを拒否しますが、
僕は部屋の中を行ったり来たりしながら考え始めた。ドイツにはヒットラーがいて、原子爆弾を開発するおそれは大いにある。しかも向こうが僕らより先にそんな爆弾を作るという可能性は、考えるだけで身の毛がよだつ。結局僕は3時の会議に出席することにした。
と、マンハッタン計画に関わり原爆を作ることに同意します。
このロスアラモスで、ファインマンは色々な高名な科学者や学者に会い、住空間への不満などもありながら刺激的な毎日を過ごします。
第一回トリニティ実験で、原爆投下の実験をファインマンさんは目の当たりにしました。そとき、黒眼鏡が全員に配られていたのですが、特に害はないだろうと踏んだファインマンさんは他の人のように頭も伏せず、肉眼で見ていました。おそらく肉眼で最初の実験を見た唯一の人だろうと、自分でも書いています。
この部分、もちろん読んでいる側としてはかなり複雑というか、違和感が大きいです。読んでいて、ファインマンさんが刺激的な日々を送っていたのはよくわかります。検閲に対抗する暗号文など、面白いところもありました。前の記事で書いた錠前破りもここでのことです。
ですが、それでも本文に実験後の様子として
僕などはジープの端に座ってドラムを叩くという騒ぎだったが、ただ一人ボブ・ウィルソンだけが 座ってふさぎこんでいたのを覚えている。
「何をふさいでいるんだい?」と僕が聞くと、ボブは、
「僕らはとんでもないものを造っちまったんだ」と言った
その時、僕をはじめみんなの心は、自分たちが良い目的をもって この仕事を始め、力を合わせて無我夢中で働いてきた、そしてそれがついに完成したのだ、という喜びでいっぱいだった。そしてその瞬間、考えることを忘れていたのだ。つまり考えるという機能が全く停止してしまったのだ。ただ一人、ボブ・ウィルソンだけがこの瞬間にも、まだ考えることをやめなかったのである。
といった、この出来事を悔やんでいるような言い分がなかったら読むのをやめていたかもな〜、と思います。
私は身近な人が戦争に行ったわけでもないし、年齢的にも戦争が身近ではありません。
それでも、もし今「原爆が落ちてよかった」という人がいたら、その人がどこの国の人でも絶対に賛成できないし、感情的な行動をとると思います。
子供の頃(小学校低学年だったと思います、流石に保育園ではなかった気がする…)に、原爆資料館に行く機会があり、まず別館から入りました。
怖すぎて、本館にすら行けず、今でもトラウマというか、強く記憶に残っている出来事です。10年前のことですが、まだみた展示物が忘れられません。あの光景を知らずに肯定する人がいるとしたら、お金は払うので原爆資料館に10回ぐらい行ってもらいたいです。
この原爆に関する感想を書くにあたって、母親に、母自身が『ファインマンさん』を読んで思ったことを聞いてみました。母は広島にとても近いところで生まれ育ったため、我が家で一番そういったことに関して知識もあれば、考えも深いと思っています。
母親は、「もし原爆を今でも肯定しているような人がいれば、ちゃぶ台をひっくり返すと思う」というような発言をしていました。それには、本当に同意します。
でも、このファインマンさんについて思ったこともほとんど同じで、「まあ、この時代の、この国の、こういう人だったら仕方ないよね」という意見でした。
戦争の中で、
研究大好きな人間で、
アメリカの物理学者で、
しかもヒットラーが原爆を作るかもしれない。
そんな状況だったら、原爆が完成したことを喜ぶというのもあるのかもしれません。
国のために超重要な課題を達成できたと、嬉しがることもあるのかもしれません。
東京大空襲の時にB29から爆弾を落としていた当時のアメリカ軍人に、今では悔いていて、戦争は絶対に反対だ、と言っている人がいるそうです。そういった人でも、爆弾を落としている間は特に何も良心の呵責はなかったのだとか。(この話も母親に教わったものですが、調べるとカーチス・ルメイさんの名が出てきました。下にWikipediaを貼っておくので、ぜひみてみてください)
当時の状況からすると、もうしょうがないというか、そうなるのもわかるよね、といった考え方になります。被害者の側に立つとそうは言えませんが、少なくとも本の中でファインマンさんが当時の自分を肯定していないところを読んで、「もうこの人の話を読みたくない」という気分にはなりませんでした。
他の方のブクレポなどをみてみると、このシーンからあまり内容が頭の中に入らなくなったと言っている方や、嫌悪感をあらわにしている方もいるため、一応私の考えを書いてみました。載せてある本文を見て、この考えをする人は…と思った人は、読んでいても少なくともロスアラモスの部分は楽しめないかもしれません。
まとめ:PCが不調です…
ということで、今回は、『ご冗談でしょう、ファインマンさん』を読んだ感想を書いていきました。ちょっと長くなってしまいましたね。でも、これを参考に「読んでみたい!」と思ってくださった方がいたら本望です!
全く関係のない話になるのですが、今日はなんかパソコンのキーボードの調子が悪いというか… 変換がすごいイラつく間違いを犯すんです。
例えば、「t」と打ったら「トモエ学園」になぜか変換されるし、「ブクレポ」とうつと「何百万」になぜか変換されました。
いや、少なくともトモエ学園(黒柳徹子さんなどが通った学校)てなんで出てくるの…??「トットちゃん」はすごい好きな作品だけど、打った記憶なんて全くないよ⁈
といった中で書いているので、これから2回ほどチェックするつもりですが、誤字がいつも以上に残っているかもしれません。いつも誤字の多いブログを読んでくださりありがとうございます…
最後までお読みくださりありがとうございました。ぜひ、面白そうと思ったら読んでみてください!