うぐいすの音

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中村桃子さん『「自分らしさ」と日本語』読了! No.2 日本語は変わってきたし、変わっていくもの「方言、女ことば、敬語、…」

 こんにちは。毎日時間配分をつい忘れてしまう今日この頃です…

 

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目次

 

 

本の内容、筆者紹介

 

今回は、前回の続きとして中村桃子さん『「自分らしさ」と日本語』の感想を書いていきます。第1章〜3章までの感想は下の記事に書いてあるので、ご覧ください。

 

chirpspring.hatenablog.com

 

本は2021年の5月10日に発売されたもので、ちくまプリマー新書発刊です。

中村燈子さんは社会言語学ジェンダーの関係などについて色々な本を出されています。今回の本は初めての若い読者向けの本だと思います!

 

 内容は7章に分かれていて、それぞれ

  1. アイデンティティ表現の材料としての「ことば」
  2. 名前ー「わたし」を示すことばの代表
  3. 呼称ー呼び方で変わる関係
  4. 「ことば」とアイデンティティの結び付き
  5. 敬語ー「正しい敬語」から「親しさを調整する敬語」へ
  6. 方言ー「恥ずかしいことば」から「かっこいいことば」へ
  7. 「女ことば」ー伝統的な<女らしさ>から辛口の材料へ

となっています。

 

 今回は、第4章から感想を書いていきます。

 

 

第4章:「言語要素」と先入観

 

 4章では、まず言語要素の持つ意味について説明していました。

言語要素とは、音や単語や文などの言葉の要素のことを指します。

 

言語要素が変わると、その言葉や文章の持つ意味が変わってきます。意味の中にも、文章の持つ内容の意味と、その他のニュアンスに左右される社会的意味があるそうです。

 社会的意味の違いは、話している人との関係性の違いに関わってきます。敬語を使う相手なのか、上から目線なのか、フラットなのかなど。関係性の違いはそのまま表すアイデンティティの違いとも言えるよう。(詳しくは前回の記事参照)

 

 これが、そもそも「言葉」はどうアイデンティティにつながるのか、という疑問への答えとなってきます。

 

 この部分も例がわかりやすく面白かったのですが、一番面白かったのは4章の最後の方で、グループを区別する理由がないと、「〇〇ことば」は成立しないとありました。

 確かに、何かを「〇〇ことば」と示した時、それとは違う別のグループが存在していることになります。

 明治時代に政治の中枢を担ったり東京で学んでいたりした男性が、自分たちの使う言葉を教科書に盛り込んだからこそ女ことばという表現が生まれました。それは、教科書に書いてある男性の話す言葉と、女性の話す言葉を区別する必要があったからです。

 そして、ディズニーアニメを分析すると悪役の40%以上が外国語のアクセントで英語を話すのに、標準的な英語を話す悪役は20%にも満たず、「標準英語を話す善人」と「外国語訛りの英語を話す悪役」と区別しています。

 これは、「外国人は悪者だ」というステレオタイプを表現できます。でも、「外国語訛りの英語」に「日本語訛りの英語」と「韓国語訛りの英語」をつけないのは、日系外国人と韓国系外国人を区別する必要が視聴者にはないからです。視聴者にとっては、善人に韓国訛りの英語を話させて、悪役に日本語訛りの英語を話させる意味がありません。

 

 このように、「〇〇言葉」が担うものには社会の区別や差別を支えるイデオロギー(社会に広く認められる考え方)が密接に関わっていると、本にはありました。

 

 この部分、そのあとの章の導入のような役割を担っていたため、あまり感想を述べる感じではなかったのですが、それでも納得するところは多かったです。

「ザマス言葉」を話す人とか、下町言葉を話す人とか、

そういうキャラがいればなんとなくではあるにしろ、

そのキャラたちの育ちや、性格、そういったものに思いがよります。

それは、自分たちがスタンダードであるという意識があり、そのうえで

「こういう発言をする人は、こういったことをしやすいはず」

という先入観をすでに持っているからです。

 先入観というのは、気づかないうちに作られていて、それが実際にはもうなかったりするのならまだいいのですが、「外国訛りの英語を話す悪役」などが出てくると差別につながりやすいと思いました。

 言語、ことばが持つ力というか、ことばが表す人々のアイデンティティってかなり強いんだな、と思います。

 

 

第5章:敬語の乱れは悪いもの?

 

 そのあとの5章では敬語の働きについて書いてありました。

ここでは、

<社会人にとって敬語は重要である>

  • 正しい敬語の知識を持つことはその人の教養や地位を表す
  • 日本にはそれぞれの場面で使い分けるべき敬語がある

という「敬語イデオロギーを最初に説明しています。

 

 そして、

今日本では敬語の持つ<上下関係><親疎関係>の表し方が少しずつ変化しており、

「尊敬している人、目上の人に敬語を使う」よりも

「親しい相手には距離感をもたらさないため敬語を少しずつ控える」意味合いの方が大きくなってきていると書いていました。

 

 そういった変化により、

尊敬の意味合いも表しながら距離感を縮めるための新しい言葉遣いとして「〇〇っす」などの省略した敬語が生まれてきているようです。

 

ですが、これは敬語イデオロギーを尊重している人たちにとっては

「自分自身の尊厳のための敬語」と「正しい敬語」の二つともを無視しているようなものに取れるため、よく批判されているそうです。

 

 この部分、いわゆる「ら抜き言葉」などの「日本語の乱れ」といわれるものに共通するな、と思いました。

ら抜き言葉も、ちゃんとした理由があって、そうなることが流れとしては当然というか、当たり前とも言えるものです。

 

ただ、私はできるだけら抜き言葉を使わないように意識しています。それに対しての理由を述べよと言われると、特に言葉にはできないのですが…。

 日本語の乱れと言われるものは、決して理由がなく起こるものではなく全てそれに応じた理由があるはずです。

今回の「〇〇っす」という新しい敬語も、それが生まれた理由についてはなるほどな…と思いました。

 

 私は、同級生など、「実際の社会的地位(?)+それぞれの意識」が対等な場合、タメ口で話すことに違和感は全くありません。

引越して最初にクラスメイトと話すときも、最初からタメ口で話してもらってたのでこちらもタメ口でしたし、それは「親しくしたいです、警戒心はありません」ということを示すのに役立つと思います。

 

 でも、親しくない人には敬語で話しますし、こちらが敬意を示したい場合はタメ口でいつも話している人にも敬語を使うことがあります。それには年齢はあまり関係ないかな…と思っています。

 そう考えると、敬語の使い方ってとても難しいんですよね。

敬語をどう使うか、いつ使うか、誰に使うか、程度はどうするか、そういったことを感覚で掴みながら話していかなければならないので、「〇〇っす」などの新しい形が生まれるのも納得です。

 私は「〜っす」は使いませんが、「なので」と「なんで」の言い換えなどは、何回か話したことのある大人にすることも多いため、それも「新しい形の敬語」に通じるところがあるのかな、と思いました。

 

 

第6章:方言が生まれた経緯と、標準語が生まれた経緯

 

6章では、方言について書いてありました。

明治時代に教科書が作られたとき、そこで使用されたのは

「東京で、教養のある(中流階級の)、男性の話すことば」だったそうです。これが、いわゆる今の標準語です。

この時点で排除されたのは

「東京以外で」

「教養のない(下流階級の)人の話す」

「女性の話す」ことばでした。

方言、べらんめえ言葉(下町言葉)、女ことばなどに代表されます。

しかし、東京で学ぶのも地方出身者が多いということで、地方の小学校でも標準語が教えられるようになりました。

 ここから、標準語を話すのが正しく、方言を話すのは間違っているという考えが生まれたようです。

 

 それにより、方言を話す人は「田舎者」と思われ、つい数十年前まで方言を話すのは恥ずかしかったことのそう。

 ですが、今は「方言萌え」の考えが普及し、方言も受け入れられているどころか、憧れを集める場合もあります。

 

 方言を使う場合、

「もともとその地域の方言を使う」

「話す人によって使う子おt場を方言と標準語で変える」

「出身でなくても使うことで、自分のアイデンティティを変化させる」

の三つが理由としてあるそうです。

 前回の記事で書いた、女子の使う「ウチ」も三番目の理由からくるものです。

こうした方言は、時にその方言からイメージできる物が特定される(「〜ぜよ」で坂本龍馬など)ため、

そのアイデンティティを表したい時にわざと方言を使うこともあるそうです。(関西の言葉で容疑者を威嚇する警官など)

 

 

 標準語が東京で使われていた言葉というのは知っていても、三つも区切りがあってから作られたものと知ると、「標準」というのは人間が勝手に作られるものなんだな、と改めて思いました。

その場合、長い間に渡って京ことばが「標準語」として認知されていたんでしょうか。

それとも、学校がない上に標準語を広めよう、という考えがなかったため、例えば東北の人が京ことばを聞いても昔は「標準語話してる人だ」とか思わなかったんでしょうか。

 

 地方出身のことを隠して、方言を使っていなかった芸能人やアーティストが、「標準語=正義」という考えが薄まってから地方出身だとカミングアウトした事例がある…と親に聞いたことがあります。

少なくとも今、地方出身が受け入れられる、しかも方言に憧れる人も増えている、というのは前よりは生きやすいのかなとも思います。

ただ、私のように似非方言を使う人は、どうしても使いたいならしっかりその方言について学んだり、最低限の知識を溜め込んでから使う方がいいはずです(とか言っている割に、自分で調べたことはほとんどないので盛大なブーメランとなっています)。

これについては、方言を使う地域で生まれていないため、どうとも言えません…。

 

 

 

第7章:女ことばは新しい?

 

第7章では、女ことばについて書いていました。この章は、いろいろな事柄が書いてあり、読んでいて新しい発見も多くとても面白かったです。

 

 簡単にまとめます。

「女ことばは、女らしさと結びつき、昔から女性が使ってきた言葉遣いから自然に成立した」という主張に対する問題点>

  • 今使われている文末詞「よ」「わ」などからたどると、昔というのは明治時代の女学生が使い出した言葉を指すことになる(時代としては新しい)
  • 「女らしさ」というのは一つにまとめられるものではないのに、周りが求める女らしさから外れる人は批判される(女ことばには「控えめな女らしさ」が要求されている)
  • 昔の女性も女ことばを使っていないものは多くいる(「僕・君」という女性もいたし、「おとっつぁん」「行く」など使うものもいた)

 

ちなみに、明治時代の頃より「最近の女性の話す言葉は乱雑になった…」と嘆く人がいるため、「最近の女性の言葉は乱暴で…」という主張は150年前からされていることになります。

これは、「女ことばは昔の女性の話す言葉から成り立つもの」という前提があるからこそ成り立つものです。

 

女ことばを目にするのは、翻訳の文であることが多いのではないでしょうか。

日本の女性ももうあまり使わない「〜だわ」などの言葉を、英語や他の言語を話すはずの世界中の女性が使っているかのように翻訳している。

これが、「<控えめで丁寧で優しい女らしさ>は世界中の女性が持っている」という考えの助長にもつながると書いてありました。

 

 この章には他にも、

  • 女ことばが日本の伝統と言われ始めたのは戦中であることの理由
  • オネエ言葉があってオニイ言葉がないこと
  • 女ことばが攻撃的に使われるようになっていること

などについて書いています。

この、戦中であることの理由は特に面白かったです。

こういう理由があって、人はそれにすがるんだな…と思うと、なんというか,

身勝手なものだな、と思いました。

 

 

これを見ていると、言語のルールや常識を決めるのは全て人の都合であって、それは変わりやすくもある、ということを実感しました。

 女ことばとしてあっても、それを実際に話す人はほとんど見たことがありません。お嬢様キャラの「よろしくてよ」とかも同じです。

こう言った言葉の使用は、

その登場人物のキャラクターを誇張しやすくするのと同時に、

読み手の価値観を知らぬままに変化させているものかもしれません。

 

 流石に、全員の女性が女ことばを使うべきだとか考えている人はいないと思いますが、今の漫画とかからも読み取れる、昔からある女性へのイメージを当たり前と思いすぎて、攻撃的な発言をする女性を非難する人は多いのではないでしょうか。

 

 それでも、日本語は変わってきたということを今までこの本の中で読んできたのだから、

「女ことば」から変わって、人々の考え方を変えることもできるだろうし、その逆もできる可能性はもちろんある、と思いました。

 

 

まとめ:あとがきが優しい!

 ということで、『「自分らしさ」と日本語』後半の感想を書いてきました。

この本、書いてあることもとてもわかりやすくてサクサク読めましたし、内容も興味を引くものが多かったので、「入門書」として面白かったです!!

いろいろ、この筆者の方の本も読んでみたいと思いました。読んでいる間に、「え、でもこれは違うんじゃない?」とか思うことがあったのですが、あとがきにこう書いてありました。

 

「わかりやすい」説明には、必ずわかりやすさからこぼれ落ちてしまう真実がある。それは、読んでいた時にみなさんが「あれ?」とか「うん、でも」と感じたところだ。

 みなさんが「あれ?」と感じられるのは、毎日「ことば」を使っているからだ。どうか、その違和感を大事にしてほしい。

 

このあとがき、読んでいて嬉しくなるというか、もっと読んでみたい!という気持ちを増幅させてくれました。

読んでいて感じたモヤモヤを、あとがきでこうして解消してくれる本っていいですね。

 

 今回の記事では、(残念ながら)内容紹介が多くなってしまったと思います。

でもここで書いた内容以外にも楽しめた内容は盛りだくさんでした。一冊の本に書いてある内容の面白いとこどりなんて、2記事だけでできるわけがありません!

ぜひ、興味を持ったり、面白そうだな、と思った方がいたら読んでもらいたいです!

勧めてくれた父親に感謝!

勉強になりましたし、言語っていろいろな意味ですごいな、と思いました。社会言語学って興味深いです。でも、もちろん本に書いてあることは一人の意見なので、これに対する反対意見もあるはずです。そういった意見にも触れていきたいと思いました。

 

 最後までお読みくださりありがとうございました。楽しんでいただけたら幸いです!言葉で自分を表現することについて、学ぶことができました!