こんにちは。久しぶりに日中からブログを書き進めています。この頃、ISAK入学前ということでとても忙しい毎日…。いや、ISAK関係よりもその他のボランティア含む諸々が忙しいのもあるんですが。充実しています!
今日は、太宰治の短編集『走れメロス』から、『駆け込み訴え』の感想を書いて行きます。
短編集と著者の紹介
まずは、短編集と著者の紹介を。こちらは、今までの記事からのコピペとなります。
収録作品は、
- ダス・ゲマイネ
- 満願
- 富嶽百景
- 女生徒
- 駆込み訴え
- 東京八景
- 帰去来
- 故郷
の8編です。
このうち、『女生徒』は感想を書いたことがあるため。7編の感想を書いていきます。
太宰治は、多くの人が知っていると思います。
坂口安吾などと並ぶ「無頼派」に属する作家で、青森県出身です。戸籍名は津島修二。中期の「走れメロス」などは明るい雰囲気で、前期・後期の作品とは少し変わった作風です。
この『走れメロス』は教科書教材の定番ですし、『人間失格』と言う強烈な題名を知っている、と言う方も多いのではないでしょうか。
彼は何回か自殺未遂を繰り返していますが、38歳の時に愛人と入水自殺をしました。原因としては、息子がダウン症だったことなどが関わっている、と言われています。
戦前から戦後ごろに活動し、自殺未遂の他にも金遣いなどを含め、かなり癖の強い人生を送っています。
太宰治読了記事のまとめも作ったので、興味のある方は是非そちらもご覧ください。
『駆け込み訴え』あらすじ
それでは、この話のあらすじを書いて行きます。
が!ここで一つ。
この話は、最後の最後まで「あの人」が誰なのかが断定されていません。ここで書くには、それを明らかにしないと進めないため、登場人物が誰なのかはっきりさせます。
ですが、私はこの話の登場人物が誰なのかおw知らずに読み、その中で驚きながら読んでいきました。
その「驚き」を感じたい方は、まず『駆け込み訴え』を読んでみることをお勧めします。青空文庫などから無料で読めますし、興味のある方は是非。
『駆け込み訴え』は1940年ごろに出版された本です。キリスト教が関係しているとも言える本ですが、当時はまだキリスト教関係のことも大目に見てもらえていたのでしょうか…??
主人公は、12使徒のうちの一人であるイスカリオテのユダ。「裏切り者」の代名詞として有名な、あの男です。
キリストを裏切った時のユダの思いを、太宰の視点で綴ったものです。一応聖書の内容に事実としては反っているところも多いですが、少しずつ内容も異なり、さらに感情面ではかなり受ける印象が違います。
序文は、
申し上げます。申し上げます。旦那様。あの人は、酷い。酷い。はい、嫌なやつです。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。
この話は、「私」であるユダが、「あの人」(イエス・キリスト)に対して持っていた感情を「旦那」に話している形式です。告白調の文体です。
「旦那」というのが誰なのか、明らかにはされていません。しかし、文章からユダがイエスの居場所を告発した相手である、エルサレムの祭司長や、神官なのでは、と思っています。
「私」は、「旦那」に、「自分の師(あの人)を殺してください」と頼んでいます。
あの人に「私」は意地悪くこき使われてきて、嘲弄されてきました。堪えられるところ迄は堪えてきたのだ、と。
「私」がどんなにこっそりあの人をかばってきたか、裏の苦労をあの人はちゃんと知っていて、知っているからこそなおさら「私」を意地悪く軽蔑するのです。阿呆なくらいに自惚れ屋なのです。
…という風に、ずっと「私」のあの人に対する批判が続きます。
しかし、それでも「私」はあの人を愛しているのです。
(前略)私は天の父にわかって戴かなくても、また世間の者に知られなくても、ただ、あなたお一人さえ、おわかりになっていて下さったら、それでもう、よいのです。
私はあなたを愛しています。
ほかの弟子たちが、どんなに深くあなたを愛していたって、それとは比べ物にならないほどに愛しています。
誰よりも愛しています。
そして、あの人が死んだら、自分も死ぬつもりなのです。
あなたが此の世にいなくなったら、私もすぐに死にます。生きていることができません。
「私」は、あの人が他人に手渡されるくらいなら自分で殺す、とすら言っています。
6日前、マリヤという女性が高価な油を出し抜けにあの人の頭にかけ、御御足を濡らし、そしてその足を自分の髪の毛で丁寧に拭いました。
それに対し無性に腹が立った「私」はマリヤを叱りましたが、あの人は「私」を非難しました。
「お前たちも覚えておくがよい。全世界、どこの土地でも、私の短い一生を言い伝えられるところには、必ず、この女の今日の仕草も記念として語り伝えられるであろう」
そして、あの人のほおはかすかに赤らみ、瞳は薄くうるみ、声や瞳に今までなかった異様なものを感じました。
「私」はそれを、あの人がマリヤに恋したのだと思い、それに対し「ジェラシィ」を感じます。
そして、あの人はいずれ殺されるに違いないから、そうなった時にいっそ「私」の手で殺そうと思うようになったのです。
翌日、「私」たちはエルサレムに向かい、そこの神殿であの人は商人を追い払い、「つまらぬ乱暴」を働きます。その姿を見た時、「私」はとうとう諦めることを覚え、一刻も早くあの人を殺してあげようと思いました。
ある日、「私」たちは宴会を開きます。そこで、あの人は唐突に弟子たちの足を洗い始めました。
その時、「私」はまた、あの人を愛する気持ちを強く感じたのです。あの人を売ろうとしていたことを後悔し、みんなに逃げてくれと叫びたくなりました。
しかし、その直後、あの人はみんなの前で、「私」が裏切り者となることを予見し、暴露しました。
私は、もうすでに度胸がついていたのだ。恥じるよりは憎んだ。あの人の今更ながらの意地悪さを憎んだ。
あの人は、「私」に為すことを為せと言ったため、「私」は旦那のところにやってきたのです。
あの人の居場所を教え、「私」は銀30枚を差し出されます。
おや、そのお金は?私に下さるのですか、あの、私に、三十銀。なる程、はははは。いや、お断り申しましょう。殴られぬうちに、その金ひっこめたらいいでしょう。金が欲しくて訴え出たのではないんだ。ひっこめろ!いいえ、ごめんなさい、いただきましょう。そうだ、私は商人だったのだ。金銭ゆえに、私は優美なあの人から、いつも軽蔑されて来たのだっけ。
はい、旦那様。私は嘘ばかり申し上げました。私は、金が欲しさにあの人について歩いていたのです。おお、それにちがい無い。あの人が、ちっとも私に儲けさせてくれないと今夜見極めがついたから、そこは商人、素早く寝返りを打ったのだ。金。世の中は金だけだ。銀三十、なんと素晴らしい。いただきましょう。私は、けちな商人です。欲しくてならぬ。
最後の文は、
私の名は、商人のユダ。イスカリオテのユダ。
さて、あらすじに熱が入りすぎましたが、本文を読んでくださるとよりよくわかります。ぜひ、読んでみてください!
感想
それでは、ここからは感想に移ります。
まず、読んだ後の全体の感想から。
この本は、読むまでどう言った内容かわからなかったんです。旦那様とか、そのほかの言葉も含めて、少し下町っぽさを感じます。というか、昔の日本の百姓とか町人とかってこんな言葉遣いだったのでは…という感じ。
そして、最初に読んだ時、なぜかイメージが「女性」だったんです。なんでなんでしょう…。よくわからないんですが、最初のイメージが女性だったため、ユダとイエスだなんて思いませんでした。
でも、キリストを想起させるような文章や、ほかの使徒の名前は何度かでてきたため、そう言ったオマージュ?それとも本人?と思いながら読んでました。
だから、一番最後にこの作品がどう言ったものなのか確証が持てた時、ちょっと驚きました。そうなのかな、そうかも、いやでもそうなる?と思いながらのことだったので、「あ、やっぱりそうなんだ…」という驚き。
とても楽しい瞬間でした。本を読むときに、そういう瞬間はいくつもある(特にミステリ)のですが、この作品はその驚きが特に楽しいものだったと思います。
読んでみて、イスカリオテのユダをこんな風にかけるんだ…という驚きも。私は、ルネサンス絵画(特に宗教画)が大好きなので、渡英していた際によくみていました。
その経験から、ある程度聖書の内容は掴んでいます。特に、キリストを題材にした絵も多いので、『駆け込み訴え』のなかにでてくる部分は「あ、このシーンかな」などと推測することもできました。
だからこそ、読んでいて一致するシーンもあれば、こんな考え方もできるんだ…というシーンもあり、より面白くなったんだと思います。
マグダラのマリアのシーンでは、聖書ではこれは信仰心を問うための話として描かれることが多いです。ただ、太宰治だとこれが恋愛の関わる話に…
キリストが恋をした、なんて話は今まで習ったことがないですし、字面を見るだけでもちょっと驚きがあります。だからこそ、太宰の想像力の凄さには本当に感服します…。
また、聖書だとユダは金貨のために行動したケチな人間です。それが、『駆け込み訴え』だとユダはあまりケチな人間ではなく、しかも「お金はいらない」とまで行っています。そのあとの言動からは、「お金は欲しくもないけど、裏切る大義名分としてお金を使っておいたほうがいい」と行った思いが働いたのではないかな、とおいう想像がつきます。
このお話を読んでいると、ユダの味方になりたくなる…
キリストひどい!とか思いたくなります。それは、完璧に太宰治の文章力の凄さだと思います。今までそんなことを思ったことがないので。また、視点を変えてみるとこんな新しいストーリーになるというのは、学びとしてもとても面白いです。
ユダの偏愛というか、敬愛の念というか、少し異常なまでの執着心は、みていて哀れになる程。本当に、お金とかの私利私欲のためではなく、彼なりのキリストのことを考えて、彼なりに行動したんだな、と思うようになります。あれが、キリストがある意味望んでいた結末なのかもしれない、と。
ユダが祭司長に訴えるシーンは、本来は聖書に乗っていません。古くは紀元前2世紀ごろから、ユダの行った行動を擁護する話が出ています。ですから、この太宰のお話も特別に変わったものではないようです。
著者と無理やり連携させるならば、この短編集に収録されている『東京八景』という話には、家族に嘘をつく話が出ていました。そう行った、嘘をつくつかれる、経験をこの時期に太宰がよくしたからこそ、この話を書いたのかもしれません。裏切りという行為も、その一言でまとめられるものではなく、色々な事情があったのかもしれないよ、と。
この話は、読んでいて読みにくいです。なぜなら、開業もされてなければ行間が空いているところもないからです。そう行った意味で、文章が詰まっていて読みにくい。だけど、その形式だからこそ、ユダの切迫した感情に寄り添うことができます。どんだけ焦っていたか、どれだけ熱量を入れていたか。
独白のような文章で、相手が相槌を入れていたのかはわかりません。質問に答えているような文章もありましたが、ユダが自分で話した言葉しかないので。
そうやって、ユダが畳み掛けるように告白する文章には圧倒されると思います
また、疾走感があるため、物語の中に入り込みやすくなります。愛情と憎悪が共存しているユダの感情は、読んでいて揺さぶられるものがあり、そこも面白いところの一つです。
これほどのユダの感情に対するキリストの返しは…。太宰のこの作品を読んでいると、キリストを批判したくすらなりますね。
なんというか、ユダが哀れにも思えますし、逆にその狂気のような感情が美しくも思えます。
美しいというワードを書きましたが、まさにこの通りかと。圧倒される、狂った文章。少し、美しい、と感じてしまいます。
「太宰だからこそ」とか言えるほどの太宰通でもないですが、読んでいて「流石に太宰はすごいな…」と思いました。この作品に会えたのが嬉しいです。
最後に
ということで、今回は太宰治の『駆け込み訴え』の感想を書いてきました。
話が色々なところに飛び火していますが、まとめると「とても面白い作品だったよ!」ということで!
本当に、とても面白かったです。こういう風に描けるんだ、という勉強にもなります。
歪んだ愛って、みていて気持ち悪くなるときもあれば、振り切れちゃって美しい、と感じるときもあります。好みは分かれると思いますが、私はとても好きです。
なんか、太宰の人生を知っているから、というのはどうしても入ってしまうと思うんですが、桜桃などの後期の作品に比べて、絶望感がないです。
話自体は裏切りの話ですが、もう狂気の方に振り切れちゃっていて、絶望感がなく、ネガティブな感情で終わらない。
個人的に感じたことですが、やっぱりネガティブにはなりませんでした。
どうやったら、この文章の「感じ」が出せるんでしょう。とても面白かったです!
最後までお読みくださりありがとうございました。結局上げるのは夜の時間帯になってしまいましたが、今日も有意義な1日でした!明日も頑張ります!皆さんもお疲れ様です、お盆休みがある方は、ゆっくり休んでください!