うぐいすの音

16歳の女子が運営しているブログ。本のレビューなどしていきます。

爆発ってなんだろう 〜圧倒された大きな絵から〜

今週のお題「爆発」

 

 

 こんにちは、うぐいすです!今日もみなさんお疲れ様です。

学校も対面授業が始まりましたが(対面授業始まって3日目に書き始めています)、英語が本当にわからない…。ある程度は分かるんですが、自分の意見も言いにくいし、知っているはずの英単語が出てこないし。理解語彙と使用語彙って本当に違うんですね。ちょっと大変かもしれないです。でも、文明の力のおかげで翻訳がすぐにできるのでとても助かっています!

ただ、一つ問題があるのは、「自分が聞かなければいけないことだ」と分かっていれば注意を傾けていられるんですが、他のことをやっているときに遠くから呼ばれる(特に名前でない時)と、注意を払っていないので本当に気が付かないです。慣れなきゃな〜って感じ。

 

 今回は、はてなブログのお題にそって書いていこうと思います!お題は、「爆発」。

 

爆発…

なんだろう、私の中で爆発というと、物理的な爆発と心理的な爆発に分かれます。

たいてい、心理的な爆発だとそれはネガティブに捉えられることが多いですよね。

私も今新しい生活の中で少しずつ気が付かないうちに鬱憤が溜まっているはずです。それがリミットに達すると、それは「爆発」となります。

 

私は大抵体が「そろそろ危ないよ〜」って教えてくれるんですが、本当にイライラが溜まって窓とか森から叫んでる人も見たことがあります…。

 

はてなブログのサジェストを見ると、「芸術は爆発だ」っていう言葉がありました。

これ、とてもよくわかります。

私は自分に芸術(特に絵画など)の才能があるとは全く思っていません。でも、ルネサンスの絵画がとても好きなのである程度見たことはあります。

その中で、一つだけ5年以上経っているのに忘れられない絵があります。

もちろん今までに見てきた絵の中で、印象に残ったものはいっぱいありました。どの美術館にも素晴らしい絵がありました。思い出せるものはたくさんあります。

 

でも、最初にパッと見た時に体が硬直するような、圧倒されるような感覚を味わったのは

ミケランジェロの「天地創造」と「最後の審判」、『システィーナ礼拝堂装飾画』と呼ばれるものです。

記憶補正が入っているのかもしれませんが、この絵は圧倒されました。

あれを見ることができただけでとても嬉しいし、自分の中でも大きな糧となっているだろう、と思っています。

だからと言って私がこの絵が一番好き!とかではない(一番なんて決められない…)のですが、それでもこの絵は特別です。

 

こんなに精密で、人の心を捉えて離さないものがあるなんて…。5分しかその時は中にいられなかったのですが、できることならもっと見ていたかったです。本当に圧倒されます。

 

芸術は爆発だ」という有名な言葉に、これをそのまま照らし合わせたいわけではありません。この絵では何かが爆発している、と言えるほど私は絵画に詳しくありません。

でも、もしも「爆発」の派生に「圧倒」があるなら、あの絵は実際に「爆発」していると思うし、それを見た人の何かを爆発させる力もあると思います。爆発を引き起こす、といった力。

 

その力は、決してミケランジェロの礼拝堂天井画のみにあるわけではありません。

素晴らしい絵画作品はたくさんあります。

いわゆる三大巨匠(ダ・ヴィンチミケランジェロラファエロ)の他にも、素晴らしい芸術作品、圧倒される芸術作品はたくさんありました。

見ているとゾワゾワしてしまうような絵から、感嘆のため息を上げずにはいられない彫像まで、たくさんあります。

 

そういった「爆発」の末にできた芸術作品を見ることができる、感じることができるのは本当に贅沢なことなんでしょうね。

 

贅沢と言えば、この前同級生に数学を教わっていたんです。

面白い問題で、ずっと解いていたのですが、その同級生がピアノも弾ける人で、ピアノの音をBGMにしながら数学を解いていました。もともと私が数学を楽しんでいたということもあるかもしれませんが、あの空間は本当に贅沢なものだったと思います。

まだそれに対する感謝を言っていないので、この後でいう予定!

 

そのピアノとかを無理に「爆発」に繋げようとしているわけではありません。

何かを「表現」することと「爆発」させることは違うと思います。でも、その二つは限りなく近いのかも。

自分の中に溜まって行ったものを、絵や音、言葉を使って発散させている。それは、爆発の一歩手前なのでは?

発散させずに内にあるものが溜まりに溜まった時、「爆発」という形になって現れるのかもしれないです。

 

なら、私が今書いているこの文章も、今は「発散」ですが、本当に言いたいことが溜まりに溜まった時は「爆発」になるのかもしれません。その違いは読み手に毎回わかるわけではないかもしれないし、自分が「爆発させよう」と思っているわけではないので自分にもわからないのかもしれない。心に残るものが「爆発」したものなら、爆発は至る所でおこっています。

爆発している、と他人が感じられるもの。それを作り上げるのは本当に難しいんだと思います。でも、ふとした瞬間や、意識していない瞬間にも出来上がりそう。

 

…「爆発」ってなんなんでしょう。物理的な爆発の答えを聞きたいわけではありません。

感情の爆発って、定義できるんでしょうか?

できない気がしてきました。同じような文章を書いた時、ある人にとっては「発散」でも他の人には「爆発」なのかもしれません。その違いは、その時に起こった出来事、その人の感情、思い、バックグラウンド、いろいろなものによって構成されます。

 

受け手が「これは爆発している」と思った絵や音でも、その発信者は「発散」のつもりなのかもしれない。

その逆もまた然りです。

 

「爆発」が定義できないなら、「爆発しているもの」も定義できません。

全てを「爆発」とできるわけではないと私は思っていて、「発散」「爆発」(もしくはその他も)と、レベルを分けた方がいい感じているからです。

 

だったら、私が今読んでいたあの文章、私が見ていたあの絵画、あの時に訪れたあの彫刻、あれは「発散」だったのかもしれないし、「爆発」だったのかもしれない。

自分がそこから得たものは必ずあるはずだけど、もしもそれが「爆発」の結果だったのだとしたら、もっと感じることがあるのでは?

 

昨日読んだあの本。ただただ楽しんで読んだけど、あれのなかに作者が「爆発」させたかったものがあったと知っていたら、もっと深く読めたのでは?

 

何が「爆発」で、何が「発散」なのか。その違いがわからないなら、全てのものに「爆発」による副産物である可能性があります。

 

 

ここで、「だから、全てのものにその可能性があることを理解して、尊重していきたい」みたいな文章を手が書こうとしていました。

 

でも、そう言った結論でこのブログを閉じたくないです。

 

思いがけず、こんなに考えることができました。

このブログは「爆発」の結果ではないと思っているけど、自分で意識しないままにここまでのことを考えることができたし、要領があまり得られないとしてもこの考えは決して無駄ではないと思います。

自分の経験談から疑問を出して、それを定義しようとして、ある程度の答えを出した。

哲学サマーキャンプでの経験が生きているのかはわかりませんが、こう言った文章が書けたことが嬉しいです。

 

だから、私の中で出した結論はしっかりとは書かないでおいて、このままブログを終わろうと思います。

というか、私の出した「尊重したい」結論は、決して悪いものではありません。月並みな言葉だとしても、それが月並みになっている意味があります。

だから、別に私の出したその答えが「いい子ぶっている」とか思っているわけではないんです。

 

だけど、ここで思いがけず「爆発とはなんだろう」という一つの疑問が生まれたんがから、これからも疑問が生まれていくことはあるはず。

それなら、ここで結論をつけてブログを閉じずに、考える余地を(主に自分のためでもあるけど…)残しておいた方がいいのでは、と思いました。

 

ここまで読んでくださった皆さんは、どう思ったでしょうか?

「これは感情が爆発していたな」、そう思う芸術や、その他のものはありますか?

私はたくさんあります。音楽、絵、文章、写真、スピーチ、、、。

そう言ったものから考えられることがあったら考えて、ただ浸っていたかったら浸って。享受できるものがあるのなら享受した方がいいと思います。

何か「爆発」に関する考えが、少しでも頭の中によぎってくれたら幸いです。

 

 

最後までお読みくださりありがとうございました。まさか、こんな記事になるとは最初は思っていませんでした。この記事を「爆発」だとはあまり思いませんが、そう思ってくださる読者の方がいたりして…。それはとても恐れ多いけど嬉しいですし、正解も不正解もありません。こういう思いがけない文章、考えが生まれるから、やっぱり書くことは楽しいですね!次の記事も読んでいただけたら嬉しいです。