うぐいすの音

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この頃感じた方言の面白さ!井上ひさし『父と暮せば』より

 こんにちは!今回は、覚書として短めに井上ひさしの『父と暮せば』を読んでいて感じたこと、調べたことなどを書いていきます。

 



今、Japaneseの授業(国語とはまた少し違う、国際バカロレアカリキュラムの日本語:言語と文学』という授業です。詳しくは他の記事を見てみてください!)では井上ひさしの『父と暮せば』という戯曲を用いて学習しています。

父と暮せば』は1994年に初演、1998年に出版された井上ひさしの原爆三部作のうちの一つで、原爆によって父親を失った女性、福吉美津江の過ごした数日間を描いた話です。

なぜか現れた父親の幽霊、原爆の後に友達の母親が残した美津江を非難する言葉、そして揺れ動く美津江の人間関係と、生きる意味…。

的な感じのお話なのですが、このお話、繰り返し読めば読むほど面白いなと思いました。

 

その中でも、特に面白いと思ったことに関して書いていこうと思います。

 

 

1. 方言に関して

 

最初に長い言い訳を書いておくと、ちゃんと調べられているわけでもないですし、信頼性のあるソースはあまり使えていません。それはあなたが思い違いをしているだけ、と突っ込みたくなるところもあるかと思います。私自身も今調べている最中ですが、もし間違いや知っていることなどがありましたらぜひご連絡いただけるとめちゃくちゃ喜びます!

また、知識のない初心者が書いているため文の至る所に「らしい」とか「よう」とかが散見されます。読みづらくなっているかと思います、申し訳ありません!

 

この戯曲の大きな特徴のうちの一つに、会話文が全て方言で書かれていることが挙げられます。広島弁を父親も美津江もしゃべっており、慣れていなければ少し読みづらいのではないでしょうか。実際に私も戸惑いながら初読は読み進めました。

その中でもクラスで方言として取り上げられたのは、

「おとったん」「ありがとありました」「ほたえる」など。

もちろん全て会話文は方言ですから、これだけではありません。

 

私はもともとある程度方言に興味があり、親戚にも広島弁島嶼部ですが)喋る人たちがいるため、どちらかというと「〜じゃけえ」「〜(し)とる」などの方言に親しみはありました。また、『うちのトコでは』という方言満載の漫画を読み込んでいるため、他の地域の方言もなんとなく知っているものはあります。

 

そんな中で、読み進めていくうちに「本当にこの方言は広島弁なのか?」と思うところがいくつかあったんですね。

例えば、「おとったん」。これは聞いたことがありません。おとん、お父さんなどは広島で使われるようですが、おとったんというのか。母親(広島島嶼部出身)に聞いたところ、「少なくとも広島弁としておとったんとは聞いたことないけれど、父親を表す言葉は地域の影響より階層の影響が大きいし家で違うのでなんとも言えない」という回答でした。

 

「ありがとあります」は、母親のいた地域では使われないよう。ただ、「〜ございます」を「〜あります」というのは方言として山口や広島であり、「おはようあります」という言い方はあるそうです。

(おはようあります。 | 日刊わしら - HIROSHIMA DAILY WASHIRA)

 

 

「ごっつ気の利く」。ごっつって広島でもいうのでしょうか。私の中ではかなり関西、特に大阪の方言なイメージがありました。「ごつい」「ごっつい」は広島でも聞く印象がありますが、「ごっつ」はあまりなく…。

 

「〜にゃあ」「〜みゃあ」「どえりゃあ」は割と名古屋弁なイメージがあった(にゃあにゃあ言っているイメージ)があったのですが、それも広島にあるのか…? 調べてみると、どうやら少なくとも〜にゃあとどえりゃあはあるとのこと。長音になるのは色々な地域で起こっているので、他の方言のイメージが強いとしてもそれが広島でないとは言えないよな、と思いました。

ためになる広島の方言辞典

 

ザ行がダ行になり、「ザブトン」が「ダブトン」になるのもどちらかというと近畿地方(和歌山、兵庫、奈良付近)のイメージでしたが、調べてみると高知県でも似たような現象があるそうです(『高知県の鼻濁音』)。ということは、広島で話されていても不思議ではないのか…?

 

サ行がハ行になるのも、色々なところに見られます。有名なところでは東西の比較で「しちや」「ひちや」問題。質屋をどう発音するか、ですが、どうやら一概に東では「ひ→し」、西では「し→ひ」とは言えないようです。江戸弁でも「東」が「シガシ」になる一方、「ししゃも」を「ひしゃも」というとか。このs音とh音の混濁は他の言語でも見られ、古代ギリシャ語のh音はサンスクリット語ラテン語の語頭のs音に対応しています(『フィールド言語学者、すごもる』)。

 

それと、広島弁で「こげえ」っていうのかな。調べた奥豊後(大分県)の方言らしく…。こがいな,こげな、は鳥取でもあるそうですが、広島の、しかも市内の方にもあるんでしょうか。

「ふてー」は一見江戸言葉(ふてえ野郎だ、的な)に見えたのですが、二重母音(アイ、エイ、アエ、オエ)の長音化は岡山県で見られるらしい…。ということは、広島でも話されてる?

「じょうに(非常に)」は、調べると同様の方言が高松であるとか。島根でも「じょーに(たくさん)」というとのことなので、まあ広島でもあって不思議はないですが。

 

「きれいかった」という言葉もありました。

「きれいなかったのお」とか「きれいなかったろう」はおじいちゃんがいうのを聞いたことがあります。「きれいなかった」は形容動詞の「きれいな」に過去形の「かった」であり、昔ある程度使われていたようです。昔の『小公子』の翻訳にも「〜かった」という言い方はあり、ある程度の市民権は得ていたものの言文一致運動の中でなくなっていった例として紹介されています(斉藤美奈子文章読本さん江』)。

「きれいかった」は形容動詞に形容詞の活用を当てはめたのかなとも考えられますが(若者言葉とされる「違かった」などもそれです)、その場合昔のテキストに方言として載っているのはどういうことなのか。ら抜き言葉が方言として昔から使われているケースもあるため(『近世後期尾張周辺方言におけるラ抜き言葉の成立』)、この「きれいかった」もそうした変化の結果なのかもしれませんが、なんともわかりません。

 

なんというか、もちろん私は広島弁をほとんど知りませんし、時代による変化はとてつもなく大きいと思います。それでも、少し違和感があったことは確かです。

あと、舞台は広島市内なんですよね。方言って、どれくらいの地域差があったんでしょうか。もちろん広範囲で話される方言があるのはわかります。広島は栄えた地域として様々な他地域との交流もあったでしょう。「あれ、これ違う気がする…?」と思って調べた方言でも、広島を囲む地域で話されていたりすることがかなりありました。

さらに、全く違う地域でも似たような方言が使われていることもあります。サ行とハ行の混同などは東北地方でも見られています。こうしたケースの場合、人の交流というよりもそこには何かの法則があるとみる方がわかりやすいのかも。

 

また、昔よく使われていた言葉が都会から地方にわたり、結果都会では言葉が変わったものの地方では残る…として、日本語の古い表現や古語が方言として地方に残っていることもあります。「きれいなかった」とかはその類なのかな。

 

多分、この分野でも色々な研究がされているんでしょう。早くもっと調べてみたいです!自分は言語学というより文学が好きなんだろうなとか考えていたら、思いもよらぬところで言語の面白さを垣間見てしまいました。

 

とりあえず、これから読むのは斎藤美奈子文章読本さん江』と柳田國男の『蝸牛考(方言周圏論についての本)』。そういえば、この前図書館で借りた『落語と言語学』という本もまだ読んでいないんだった…。

 

2. 歴史に関して

 

普通に生活しているだけなのに、知りたいことはいっぱい出てきますね。

父と暮せば』で福吉美津江が働いている図書館、今日の授業中に調べてみたところ「市立浅野図書館」がモデルでまず間違いなさそう(1948年に開いている図書館がここしか見つかりませんでした)なんですが、この図書館、美津江の家のそばにありました。

 

もともと浅野図書館では1944年末以降から、9万点ほどの蔵書の中から貴重図書や絵図などを1.7万点分散疎開させていました。そして第二次疎開のために特別図書約一万点を梱包、準備しているところで8月6日に原子爆弾の投下。建物は外郭を残し全焼、図書も全てが消失したそうです。疎開していた貴重図書は焼失を免れたものの9月に起こった水害で多数流失、もしくは損傷。

そんな中でも、被曝の翌年(1946年10月)から山陽文徳殿という建物の中で行み再開。

元々の場所で業務を行えるようになったのは1949年6月からであり、1955年の新築・移転を経て1974年に広島市立中央図書館となりました。原爆の被災から免れた貴重書籍は現在浅野文庫として保存されているようです。

浅野図書館から中央図書館へ|新着情報|広島市立図書館

 

そんな浅野図書館の場所、というか山陽文徳殿の場所は、比治山の北西に位置しています。福吉美津江の家は「比治山の東側」。かなり近いのでしょうね。

当時は尋常小学校6年(6-12歳)、高等女学校4年か5年、その後女子専門学校(女専)に3年間通います。広島女専の当時の死者数などをみると1学年〜3学年のみで、高等女学校を4年で卒業したものを対象にする予科はなかったようなので、っこでは高等女学校5年で卒業と仮定します。

美津江は1948年7月の時点で23歳なので、1924年7月〜1925年7月のどこかが誕生日。

被爆当時すでに図書館で働いている描写があるため、

  1. 1924年度誕生
  2. 高等女学校を5年で卒業(1942)
  3. 高専に入り20歳で卒業(1945年3月)
  4. 図書館で働き始めて4ヶ月で被爆

だと言えます。働き始めてちょうど第二次図書疎開の準備をしていた頃に被爆したのでしょう。

ちなみに1940年時点で高等女学校に進学できた女子は小学校卒業者の17.5%(『昭和10年台の教育について』高原幹夫)。そこから女子専門学校に通える割合はより低かったかと思います(データが見つかりませんでした…)。

そう考えると、先に妻を亡くし一人で旅館を経営し、娘を女専に入れた父親(竹蔵)ってめっちゃすごいのでは。割と社会的地位のある家庭だったのかな、と思います。そう考えると「おとったん」って、偏見ですが社会的地位がそれほど高くなかった層が使っていそうなので疑問が残りますが…。

 

美津江は1945年の4月から図書館で館員として働き始め被爆。1948年は山陽文徳殿で働いており、ちょうどあと一年後の1949年6月には浅野図書館はもとの場所に移転します。

そんな中で子どもへのお話し会があったり、原爆資料を持ってくる来館者がいたり。朝の図書館の当時の実態を知らないのでなんとも言えないのですが、原爆&水害の影響を受けたそこまで多くない蔵書数の中で、よくここまで図書館らしいことができるなと思いました。

少ないとは言いつつ、少なくとも原爆後に1.7万冊は残っていますから、水害後も1万冊は最低でも残っていたのでしょうか。ただ、疎開させられた貴重図書の中に絵本などが入っているとは思えません。それならば当時の子供への「夏休みお話し会」は、それこそ美津江が女専時代に副会長を務めていた「昔話研究会」が暗唱するからこそできることなのかも。

 

 

3. まとめ

方言のことも、当時の実態のことも、気になることはたくさん出てきます。自分のことをそこまで文系だと思ってこなかった(理系科目も好きですし)のですが、ここまで惹きつけられるとやっぱり日本語(というか言語、文学)が好きなんだろうな、と思いました。

まあ、正直ここで調べたことのほとんどはIBの試験では使えないですが、楽しいからいいかな。

 

もっともっと調べていきたいです。長野の田舎でネットと地域の図書館を使ってできることには限りがありますが、せっかく授業で使っている本ですし、自分で授業を楽しくしていきたいので!

 

ということで、思ったより長くなってしまいましたが、『父と暮せば』を読んで思ったことでした。

最後までお読みくださりありがとうございます。もっと知見を広めていきたいな〜と思った出来事でした。