うぐいすの音

17歳の女子が運営しているブログ。本のレビューなどしていきます。

高校生なりに考えること インクルーシブ教育とは

こんにちは!この頃は全然ブログを更新できていなくて、ちょっと焦る気持ちが。

書くことの大切さを感じ続けるためにも、今回少しこの頃感じていることを書いていきます!

 



この頃、と言いつつ、もう二年間くらい考えていることがあります。

それは、「一人一人は違う」ということ。

インクルーシブ教育という言葉が普及しつつある今ですが、日本でも、もちろん日本以外でも、いまだ家庭環境などの差によってその意味が浸透しているとは思いません。

 

「努力すればできるようになる」「できない責任は当人にある」

そうした言葉は、私もよく聞く言葉ですし、なんなら全く同じことを考えていました。でも、ここ数年で環境が変わり、それに疑問を感じるように。

 

私なりにこのことに関して考えていること、もやもやしていることを今回は書いていきます。ですが、私がこれから書くことについて私は十分に学べているとは思いませんし、考えたらずなところもいっぱいあると思います。

そして、一番に断っておきたいのが、私がいわゆる「努力すればある程度はできるようになる人」だということ。言語優位だと自認していますし、「賢い」と言われる層に入っていると思っています。それは、人間的な賢さなどではなく(人間的な賢さってなんだろうとも思いますが)、小中学校、そして時には高校でも、私の成績がある程度他人に誇れるものであったことが理由です。

 

そんな立場から話す、「できる人とできない人」。

色々と考え不足なところはもちろんあると思いますが、それでも頑張って考える過程を書いていきます。

 

 

以前の自分の考え方

それでは、まずは数年前の私の考え方から。

私は、特に中学校では、なんでも勉強すれば分かるようになると思っていました。

できない人はただ勉強をしていないだけ、授業を聞いていないだけ。時間を使えばできるようになるのに、他の勉強以外のことに熱中しているか、勉強が嫌いだから、何もやっていないだけ。

 

そういう人も、実際一定数いると思います。授業を聞くよりもアニメの話をしたいから、スポーツの話をしたいから、勉強に集中しない人。自分が誇れるものが既にあるから、勉強をしたくない人。

 

でも、そういう人たち「だけ」だと思っていました。特別支援が必要な人たちがいるということは知っていても、その人たちは違うクラスにいて、私のクラスにいるのは全員「普通」の人だと。

 

 

新しい経験と思い

そして、長野県に引っ越してから、ISAKでさまざまな教育の形を見るようになりました。身近にいる先生をやっている人たちが、「特別支援」の必要な生徒たちに関わることが多くなっていきました。

公立の学校で特別支援学級を受け持っている人。「特別支援学級」などのシステムがない私立の学校でさまざまな生徒を受け持つ人。

 

言い方が難しいですが、そこで話を聞いていて、「できない人」がいるということを感じました。

この言い方、とっても上から目線だと思います。

でも、他になんて言えばいいのかがわからないのでこの言い方で。

「できない人」というのは、ここでは、机に座って毎日6時間程度先生の話を聞き、その内容を理解することができない、ことを指します。

その間に集中力が切れる人もいれば、ある時から内容を理解できなくなる人もいます。周りと勉強できない人もいますし、言葉よりも別の方法の方が理解しやすい人もいます。

 

自分から望んで先生の話を聞かない人もいますが、そもそも聞くことが「できない」人もいる、と、周りの人の話を聞いていて感じました。

これは、多分それこそ特別支援のクラスについたり、学力での選定がない私立校でさまざまな生徒と触れ合ったりしないとしっかりとはわからないと思います。だから私もまだ「聞いた話」にすぎず、経験したことではありません。

でも、縁があって、先生がずっとついていないとじっとしていられないような生徒と、ISAKに入ってから何回か会うことがありました。学校をただ案内しているだけなのに、そこに集中できない人がいると初めて知りました。

かなりの衝撃でした。

 

私にとって、算数なんてただ数字を使って遊んでいるだけで、難しいと感じたのは高校に入ってからです。でも、まず割り算が想像できない人がいることを知りました。

国語は、問題の作り手が答えて欲しそうな部分を読み取って、それを書けば済むことだと思っていました。そもそも自分のいる学年の漢字がわからず、何年も下の学年の漢字から躓いている人がいることを想像したことがありませんでした。

特別支援学級」に入っていなくても、そういった生徒がクラスにいると考えたことがありませんでした。

 

マンツーマンの教育

ISAKのコースの中で、私は同級生とさまざまな学校を回る「学校探検隊」プロジェクトを行っていました。いくつかの学校に行って、自分にとっての理想の教育を考えることが目標でした。

その中でたどり着いた究極の教育の形の一つは、「マンツーマン」。

一人一人の進度に合わせて、その人に合った形で勉強を進めるなんて、マンツーマンが一番やりやすいです。人員と資金が許せば、その形の教育がどんどん広まっていくでしょう。個別指導の塾も今広まっています。

 

現在の義務教育も、勉強だけではなく人との交流を深める力が養われる利点はあります。でも、勉強が一番の目的である学校で重要なのは、人とのコミュニケーション能力よりも勉強することでしょう。それが学校という施設のある理由ですから。

だとしても、マンツーマン教育は単純に不可能。だからこそ、現在は小学校の低学年からクラスを超えて、少人数制度を使っています。私が覚えているのは、小学二年生くらいから「どんどんコース」と「じっくりコース」に分かれて掛け算をやっていたことです。それは中学校でも続き、発展コースと基礎コースになりました。

少人数制度は教員にとっても、生徒にとっても、授業をしやすい、勉強しやすい制度なのでしょう。

 

少人数制度の教育

それでも、私はその制度にも欠点はあると思っています。少人数制度を使うのなら、公立が公立である意味がなくなってしまうと考えたからです。

公立と私立の違いは、公立にこそ本当の「多様性」があること。

公立学校には、同じ地域の、さまざまな家庭環境の生徒が入ってきます。対して私立は、ISAKもそうですが、まず「教育に関心のある」家庭環境の生徒が入ってきます。その上、学力試験がある場合は学力、多くの場合は家庭の経済環境など、さまざまな尺度で共通点のある生徒たちが入ってきます。

 

私立、もしくは学力で分けることの欠点は、「できない人」たちの存在をそもそも「知れない」「理解できない」こと

選ばれた生徒だけがいる環境では、それが「普通」だと思い込み、それ以外の書類を読むことが苦痛になる人や同じ場所で座ってはいられない人、さまざまな理由で何かが「できない」人がいることがそもそも理解できないでしょう。

私は、多分その一人でした。だから、「努力できない人」は全員「努力しない人」だと思っていました。

 

その考え方が普通になっていては、無意識に住む世界がどんどん狭まり、その世界にいない人のことが考えられなくなります

だからこそ、特に義務教育の段階では学力による少人数制度を行い続けるべきではないと感じました。

 

『学び合い』での教育

少人数制度でなければ、何が残されているのか。

私の小学校六年生の際の担任は『学び合い』を行なっていました。

授業方式の一つで、全員が一つの課題をこなせることを目標に、できた生徒が他の生徒を教えながら授業を進めていく方式。この説明は、授業を受けた生徒としての認識ですから、本来は他の意図があるのかもしれませんが、私はこの授業が嫌でした。

それは、私が毎回教えるばかりで、私が得るものが何もなかったからです。

 

同じことを、何回も他の生徒に教えるだけの授業が楽しいとは思いませんでしたし、「説明することによって自分の理解が深まる」と言っても、限界はあります。私が『学び合い』を最終的に楽しめるようになったのは、「どう教えればいいのか」「この友達になんと言えば伝わりやすいか」を考えることに楽しみを見出せたからでした。それはそれで楽しい経験でしたし、今の教育に対する関心を養ったとも思いますが、内容としては不満がいっぱいでした。

だからこそ、私はその時の担任の先生に「勉強が苦手な人にとっては公平なクラスでも、勉強が得意な人には不公平なクラスだと思う」と手紙を書きました。

 

学力でクラスを分ければ公立の「多様性」は良さを失い、『学び合い』は全員が満足できるわけではなくて。

そんな時に知ったのが、インクルーシブ教育でした。

 

 

インクルーシブ教育について考えること

インクルーシブ教育とは、障害の有無で子供を区別せず、同じ場所で一緒に学ぶ教育のことです。

信濃毎日新聞に以前掲載されていた記事で、特別支援が必要だった子供とフィンランドに移住した際、「全員がスペシャルでそれぞれに合った支援が必要なんだから「特別支援」なんていらない」と学校で言われた、という体験談がありました。

このように、全員にそれぞれ合った支援をしつつ、一つの教室内で学んでいくという方法が、インクルーシブ教育です。

 

正直、私はそれが可能なのかまだわかりません。特別支援の話を聞いたりすると、自分の想像を超えるような生徒が普通にいることがわかります。

そういう人たちと一緒のクラスにいることが、そもそも可能なのか

教室にとどまれない生徒はどうするのか。

 

そして、インクルーシブ教育のデメリットは、教員の負担がとてつもなく大きくなること。

30人が一つのクラスに入っているだけでも大変な負担なのに、インクルーシブ教育を導入すればクラスに一人二人の教員では絶対に足りません。

 

ただ、インクルーシブ教育について考えている時に思い出したのが、9歳でイギリスに一年間いた時の学校でのこと。

クラスには支援が必要な生徒が一人、絶対必要ではなくても支援員がいた方がいい生徒が一人いました。全員で20人もいないようなクラスでしたが、学ぶことが流動的だったため、別に同じことを学んでいたわけではありませんでした。それでも、一緒の教室の仲間だという意識は強かったと思います。

支援が必要な生徒は基本的には教室の端っこで支援員の方と一緒に勉強を。教科書などは特になく、先生が用意するプリントがメインだったため、進み具合も生徒によって違いましたし、支援のいる生徒は目立つ存在ではなかったかと。

実際算数の勉強の際は、私や中国、インドから来たアジア圏の生徒はみんなレベルが違うということで(日本では小学4年生の年齢だった私ですが、イギリスでは同年齢が掛け算を初めたばかりでした)違う学年からプリントをもらい、同じ教室内で違うプリントを解いていました。

 

 

そう思うと、やはり一番いいのはインクルーシブ教育なのかな。

でも、そこで優秀な生徒たちはやりたいことをできるのか。

勉強が苦手な生徒にいくサポートの方が、勉強が得意な生徒にいくサポートの量より圧倒的に多いです。

そこで、勉強が得意な生徒たちは一体どれほどのサポートを受けられるのか。

 

マンツーマンのようにやることを生徒ずつ変えながら、同じ教室内で勉強していくのか。AIやタブレットの普及により、それは難しいことではなくなってきたのかもしれません。

でも、タブレットに集中しているなら同じ教室内でいる意味は半減するのでは。勉強が一番重要であることに変わりはなくとも、人とのコミュニケーションも、大切なものの一つです。それは得られるのか。

 

「インクルーシブ教育」は比較的新しい概念ですが、ペーパーの学力が著しく高いアジアで、その概念はどれほど受け入れられるのか。それも疑問です。

現在、学力よりも大事なものがある、という風潮が強まっていますし、それも理解できます。学力のみが基準ではいけないという意見もわかります。私も、足の速さ、身体能力の高さが学校の成績を決めるのなら、不登校になっているかもしれません。

 

でも、学力、知識は、すなわち人生の豊かさにつながります。知識があることで人生は豊かになり、さまざまな視点を持つことができます。勉強ができる側だった人間の意見ではありますが、勉強のレベルを下げることはしたくありません。

学力を重視しなければインクルーシブ教育も受け入れられるのでしょうが、そうでない場合何が最善なのか…。

 

去年の夏頃、養護学校を見学したいと思っていましたが、結局タイミングが見つからず見学はできませんでした。見学なんて軽い気持ちで行ってもいいところなのかもわかりません。でも、高校を卒業したら行ってみたいです。

 

ISAKから思うこと

ISAKには、その学校の性質も相まって、教育に興味のある生徒が多くいます。

特に日本から来る生徒にその傾向は強く、私も含めて、教育に興味のある生徒はかなりの数でしょう。だからこそISAKに来ているとも言えますし。新しい教育の形を見つけたい、学校を建ててみたいという人も何人もいます。

 

でも、同時に、ISAKに来る生徒は勉強のできる生徒ばかりです。国から選ばれて奨学金をもらった留学生はもちろんのこと、奨学生でなくても年間600万円を支払える家庭の子供はもちろん教育水準が高い生徒がほとんど。日本から来る生徒なんて、英語が日常会話並に話せて、入試も全部英語のエッセイの時点で、英語がそれほど話せる家庭環境すなわち教育熱心な家庭であることに違いありません。

つまり、私が冒頭で話した、「できない=努力が足りない」という考えの生徒が本当に多い。そして、くどいようですが、私もその一人。

 

その尺度を自分にしか使わないようにしているという生徒もいましたが、たとえ勉強のできる生徒だとしても、勉強以外も、全ての事柄にその考えを適用しようとすると苦痛になっていくのではないでしょうか。

 

完璧な人間なんていないですし、今までは勉強に関して話してはいましたが、向き不向きとは勉強のみではなく何にでもあることです。

例えば私は、「自分の考えを写真を通して表してください」とか「今何を感じたか人に話してください」とか、言語を通さないものや無理やり何かに自分の気持ちを落とし込めることが苦手です。それは努力して改善するかもしれませんが、改善しないかもしれません。

 

ただ知らなければいけないのは、「できないこと」が本当にあること。

その「できない」は思ったよりも近くに、そして思ったより多くの人に、存在していること。

 

公立だったら「特別支援学級」にいるような生徒が、私立では一般のクラスに混じっていることもあります。ディスレクシアや、障がいといった名前がついていなくても、人はそれぞれ向き不向きがありますし、できることとできないことがあります

 

私は最初、「できない」人を考えることなく「理想の教育」を考え始めました。

今私は、「できない」人を考えずに教育を語ることは無責任なことだと強く感じています。

 

できない人たちの存在を知ってはいても、別の世界のこと、「特別支援」のクラスのみのことと考えている人は多いでしょう。

実際、多くの学校で支援のいる生徒は普通のクラスでは馴染めず、特別なクラスの生徒となります。でも、最終的に住む社会は一緒ですし、どの国に行こうと、同じ社会を構成する人たちの中に昔は違うクラスにいたであろう人たちは必ずいます

 

もちろんターゲットを決めて自分の理想の教育を考えることも大切なことです。

でも、重要なのは、そこで自分がターゲットを「選んでいる」と認識することだと思います。その存在を知らないこと、そして知ろうとしないことは、無意識だとしても、無責任だし、甘えた発想なのでは。

 

知っていかなくてはいけないし、知らないまま教育について語ることはできません。たとえ私にとっての理想の教育が、最終的には私のような勉強が好きで、得意だった生徒への理想の教育になるのだとしても、知っておかなくては。

教育とは本当に奥が深いですね…。

 

人を人が教えるのですから、もちろん大変ですし奥が深いでしょう。

もっともっと考えていきたいな。

 

そしてできれば、感じたことや考えたことをここで文字にして形にしていきたいです。

大人になってから、自分が無知で、無責任で、甘えていたと気づけば、その傷は、今気づく時よりもっと深くなるでしょうね。そうならないよう、自分で自分の思考を知り、間違っていた時は律していきたいです。

 

ということで、長くはなってしまいましたが、今回はここまで。

本の感想など、これからも色々ブログには記していきたいです。

 

最後までお読みくださりありがとうございました。こんな長文を読んでくださった方たちに、何か新しい発見や気づきがあれば、本当に嬉しいです。感想などもぜひ教えてくださいね!