うぐいすの音

16歳の女子が運営しているブログ。本のレビューなどしていきます。

三遊亭円楽さんが大好きでした。

こんにちは、いつもお疲れ様です!

2ヶ月以上ブログを更新していませんでしたが、それでも毎日見てくださる人がいます。ありがとうございます。

 

今日は、悲しいことがあって、それをどこかに吐き出したいけど、吐き出せるところがわからなくて、「そうだ、ブログがある」ってなったので、支離滅裂な思っていることをただ書き連ねているだけのブログになります。

 

今日、6代目三遊亭円楽さんが鬼籍に入られました。

自分でもびっくりするくらい、すごく悲しいです。

好きな落語家さんが亡くなられたことは今までにも何回かありました。

会ってサインをもらったことが印象的な桂歌丸さん、落語教育委員会柳家喜多八さん、よく笑点で見ていた林家こん平さん、家族でよく聞いていた『ガーゴン』の川柳川柳さん。

しっかり話は聞いたことがないですが、この頃も三遊亭圓窓さん、三遊亭金翁さん。

 

落語家は60過ぎてからが本番と言われるくらいの超高齢化社会

このごろはよく若手の動画を中心に見ているとはいえ、それくらいのことはわかっていたはずです。

 

でも、自分でも驚くくらい、円楽さんが亡くなったと言うニュースを見て、衝撃を受けました。訃報で泣いたことがあったか、私は思い出せません。

好きな落語家さんなんです。

死神、芝浜、猫の皿、何回も聞きました。アレンジの効いた代書屋もお気に入りです。特に円楽さんの芝浜は、疲れている時に聞く落語です。

円楽さんの襲名時の披露口上も何度も見ました。にこにこ笑っている円楽さんを見るのが、たとえしゃべってなくても、好きでした。

桂宮治さんの真打昇進披露口上の際も、笑いをとりながら締めるところは締めるメリハリのある姿と楽屋裏での姿を見て、新しい部分を見たような気がして好きでした。

笑点も、何度も見ました。たい平さん・昇太さんが入る前の動画は多くあっても、楽さんがいない動画は見つけることすら困難です。楽太郎の頃の落語もいくつか見ました。

 

小さい頃、笑点で笑いに笑って、少し成長した後は楽さんの落語で泣いて笑って、今は楽さんの政治的手腕というか、落語家としての活動を心底尊敬しています。

博多天神落語まつりなどのイベントのプロデュースや、芸協(落語芸術協会)への客員としての参加。その後ちょくちょく円楽一門会所属の落語家もゲストとして寄席に出るようになりました。6代目圓生落語協会脱退によってできた様々なものを整理して、その果てに落語協会の統一を見ていたといいます。

 

実際に、8月の高座復帰時には教会を統一したいと笑いもとっていたじゃないですか!

あの時、父親と、声の掠れていた円楽さんについて話しました。同情から成り立つ落語じゃなくて、芸としての落語で楽しませてほしい。長生きしてほしい。

 

まさか、こんな早く終わりが来ると思っていませんでした。

自分でもここまで円楽さんが好きだったのかと驚いています。

でも、一回は生で聞きたかったですし、生で見たかったです。

円楽さんに会ってみたかったです。

 

すごい悲しいです。

 

歌丸さんに早すぎなんだよって怒鳴っておいて、こんなに早く逝くなんて、悲しいです。

落語の腕も、大喜利の腕も磨いておきながら、落語界全体のことも考えて、行動して、形にうつして。

すごい人です。これから先、円楽さんがどこにもいないし、もうみられなくなると思うと悲しいです。

たくさん笑わせてもらいました。

ゆっくり休んでください。

五代目圓楽さんと、こん平さんと、歌丸さんと、それから色んな人と、軽口を叩き合ってください。

ご冥福をお祈りします。

 

なんか、自分で一番驚いています。こんなに悲しくなるなんて。

びっくりです。

書いた文章を見直してみて大袈裟にも思えたけど、実際にその時考えたことをそのまま書きました。

本当に、尊敬する人でした。尊敬できないところもあったけど、でも客に見せる姿はすごかったです。

 

周りに落語好きの人がいないので、誰にも話せず、ニュースを見てびっくりしてそのままベッドに上がって、この記事を書き始めました。こう言う時にあまり仲間のいない趣味を持つと悲しいですね。

 

悲しいです。

でも、ありがとうございました。円楽さんのことが、楽太郎さんのことが好きな人はいっぱいいましたし、いっぱいいます。今もSNSが大変なことになっているでしょう。

お疲れ様でした。闘病、言葉にできない大変さだったと思います。

本当にありがとうございました。

 

ご冥福をお祈りします。

 

合唱。

隅の老人。安楽椅子探偵は本当に探偵だったのか?

 こんにちは。今日は、久しぶりにブログを更新していこうと思います!全然書いていなかったので、どんどん文章を書くスピードが遅くなっていますが…。

 

 何はともあれ、今日は久しぶりのブクレポをしようかと!

今日紹介する本は、バロネス・オルツィ『隅の老人の事件簿』です。

 

 

創元推理文庫から出ている本で、「隅の老人」の事件の中でも代表作13篇が収録されています。我が家にあったのは1998年に出された15版でしたが、2014年に作品社から「隅の老人」38篇が収録された完全版も出ているようです。

 

 

目次

 

 

 

作者:バロネス・オルツィ

 

それではまずは、作者のバロネス・オルツィについてさらっと紹介していきます。

バロネス・オルツィハンガリー出身のイギリスで活躍した作家です。

『紅はこべ』に代表されるような歴史ロマン小説を数多く執筆し、現在まで読み継がれています。『紅はこべ』はちょうど昨日図書館で借りてきたので、読むのが楽しみです!

 

 

ミステリ作家としては、今日紹介する『隅の老人』を登場させ、安楽椅子探偵のはしりを決定づけたことが評価されています。アガサクリスティと並び、女性の推理小説作家として有名なのだとか。

他にも、女性探偵が登場する推理小説や弁護士が登場する推理小説などを書いています。

 

この本、どんな本??

 

それでは、この本を通して読んだ感想を。

 

正直、この本は半分くらい読んだところで一回読むのをやめようかとも思いました。

『隅の老人』の特徴として、探偵である老人がほぼずっと語り続けるという点があります。安楽椅子探偵なのですから、状況描写やトリックなども全て探偵が説明しなければいけないので、それは当たり前のことなのですが。

 

それでも、今までほとんどミステリを読んでこなかった自分からすれば少し読みづらいものではありました。

それぞれのトリックも、どこか似ているものも多いというか、パターンがなんとなく掴めてきているというか。(短編という限られたページ数で事件を一つ起こすからトリックを考えるのも難しそうです…)

 

ただ、そういったネガティブな感想も、最終話まで行くと全てが覆されます

全てというと言い過ぎなのかもしれませんが、私は最終話までこの本を読んだことに感謝すらしました。

最終話がどのような内容かをここで書くと、壮大なネタバレになってしまいますからかけません。ですが、はじめて読むタイプのトリッキーな展開でした。

この本に影響を受けた作家、ミステリ本も多くあるのだろうなと思います。

 

 

なぜ、自分はこの本を正直読みづらいと思いながらも300ページ以上読み続けられたのか。

 

先ほどネガティブなことも書きましたが、それでも読み続けたのには理由があります。

トリック自体は単純というか、そこまでバリエーションに富んだものではなくても、その事件にまつわる物語、事件の現場、事件への世間の反応、そう言ったものがバリエーションに富んでいるため、読んでいて「この場合のトリックは?」と考えさせられる時があるんです。

 

それに、トリックが単純と言っても、私はあまりトリックを解こうとしない(解けない)読者なので、実際に「あ、この人だ」って思たことは多くありません。

この『隅の老人』では事件を紹介するのも安楽椅子探偵である老人の場合がほとんどなので、親切な伏線に気づくことも時々あります。

 

多分再読すればよりツッコミどころも多くなるとは思いますが、そんなことは今はいい!と思えるほどの探偵っぷりでした。

 

隅の老人って結局誰なの??

 

そもそも、この本のタイトルは『隅の老人の事件簿』です。

そして、この本の探偵は「隅の老人」です。

本の実に9割以上は、「隅の老人」の会話文です。

 

それでは、この「隅の老人」って結局誰なんでしょう?

 

推理小説では、基本的に探偵が主人公、もしくはそれに近い役割にいます。

そして、有名な探偵には大抵名前があります(例外ももちろんありますが)。

ホームズ、ブラウン神父、ポワロ、ミス・マープルデュパン明智小五郎金田一浩介、、、。

 

でも、この隅の老人、名前はありません。

名前がないのに加えて、経歴も正体も一切不明です。

わかっていることといえば、ノーフォーク街のABCショップに現れてチーズケーキを食べてミルクを啜ること。

 

外見は、禿げ上がった頭頂に薄い髪の色。目は淡い水色で大きな角縁の眼鏡をかけていて、服はダボダボの該当。常に紐の切れ端を持っていて、それを結んだりほぐしたりしながら話しています。

想像してみると、どこかの浮浪者?

ちょっと怖いです。

 

 

安楽椅子探偵の先駆とも言われ、元祖安楽椅子探偵の1人ですが、その姿は予想以上に活動的。自ら証拠を集めに行ったり、検死審問に呆れるほど出かけていたり。

確かに話すのは椅子に座ってですが、それまでに割と活動しているので今の「安楽椅子探偵」とはちょっと違うのかも。

それでも、当時からしたら画期的な姿だったんだろうな〜と思います。

 

いわゆる「ホームズのライヴァルたち」の1人(ホームズの成功後に次々と現れた探偵たちを指します。)ですが、その探偵としての姿はかなり異なっていると言わざるを得ません。

 

ホームズに代表される探偵は、警察の手伝いをするなど、謎を明らかにする→社会の役に立てる ことを一連の流れとして行っている人たちが多いと思います(いうほどミステリ読んでいないので断言できませんが…)。

 

その中でこの「隅の老人」は、ワトスン役の女性記者に対して推理を語るだけ。犯人が分かっても、基本的には自分が難事件の真相を暴くためだけに推理しているため、警察にも届けません

 

とにかく怪しい人物。

 

最終話でその正体が垣間見えますが、それでも十分とはいえないのかも。

私たち読者は、一方的にこの老人から与えられる複雑怪奇な事件の謎とともに、この老人自体の謎にも囚われなければいけません。

そんな二重の謎が詰められているこの短編集は、短編とはいえない満足感が読了後にありました。

 

ぜひ、皆さんも余裕があれば最後までこの作品を読んでみてください!

私が特に好きだった短編は『商船アルテミス号の危機』です。この作品は、読んでいてハラハラするような場面展開とゾクっとするような描写が短いページ数の間に収まっています。

改めて読むと1編ずつがもちろん面白いのですが、この短編は特にお気に入りでした。

 

 

私にとってこの老人は、その外見と語りっぷり(懇切丁寧に事件を教えます)からもどこかホームズの宿敵モリアーティを思わせるような存在でした。

探偵として異色な存在でもある『隅の老人の事件簿』、ぜひ読んでいただきたいです!

 

最後までお読みくださりありがとうございました。全編読んだ後に、自分の中で「この老人に会いたいか、会いたくないか」を考えてみるとかなり面白かったですよ!

趣味を広めたい、落語を広めたい

こんにちは。

この頃暑いですが、長野県は夜と昼の寒暖差が激しいです。昼はもちろん暑いのですが、夜は涼しくて心地いい。東京にいた時とは全然違うな〜と感じています。

 

 

今日も乱雑に書いていきます。内容のある記事を求めてこのエントリを開いた方は、ごめんなさい。でも、ちょっとでも暇だったら読んでいってもらえると嬉しいです。

 

この前の記事にも描いた通り、この頃落語にまたハマっています。もう小学二年生の頃から落語は好きですので、好きになってそろそろ10年。

 

 

chirpspring.hatenablog.com

 

 

洗濯の間、料理の間、果てには何もしていなくても、落語をどんどん聞くようになってしまいました。といってもずぶの素人ですから、特に詳しいというわけでもなく、ただの落語がちょっと好きな女子高生にすぎません。

 

でもなんとなく、落語の動画をずっとみ続けているうちに、落語に対する愛情というか、気持ちが深まってきました。落語家になる勇気も度胸もないけれど、落語に近い立ち位置で何かできたらな〜なんて思うようになってきたんです。

 

昔から、子供が落語を好きだというと、「すごいね」だったり「なんでそんなものを」だったり、色々なことを言われてきました。

 

もちろん特に多いというわけではないですが、やっぱりジャニーズが好きといった時の反応と、落語が好きといった時の反応は全然違います。(私はジャニーズも大好きです。)

個人的には、別にそういった反応をされてもなんとも思いませんでした。

好きなものを好きでいることを褒められるというのもどこかおかしいなと思ったことはありますが、そういうことを気にしていれば小学四年生で「花魁」を自由研究のテーマにしたことはありません。今は鬼滅の刃で花魁という言葉も知られていますが、私は当時落語の中でしか知らなかった言葉です。

 

でも、この頃落語を見る機会がまた増えて、落語についても考えるようになってきて、ちょっとずつ考えが変わっています。

 

特定の人が言ったというわけではなく、何気なく色々な人(クラスメイトなど)に、落語が好きというと「特殊だね」とか、「精神年齢が違う」とか言われることがあります。

それが子供の時の話のみで済んでいればいいのですが、あいにく高校生になってからも何人かに言われたことがあります。

言った人を責めるという意味合いではありませんが、やっぱり何かが好きだと言った時に「特殊」とか「精神年齢が違う」とか言われるのは、少しおかしいのでは…と思い始めました。

 

落語に限らず、特に知らないのに「そんなものが好きなの?」と聞くのはちょっと違うのでは。

私は昔から(特に昔は)「人と違う」ことにステータスを見出すことがあったので、例えば生徒会に入ったり、賞を取りたがったりしていました。そんな私ですから、別に「違うね」と言われることをネガティブに受け取っていたわけではありません。

 

でも、周りでそれを聞いている人たちは?

「落語を好き=ちょっと変」

そういうイメージがついてしまうのではないでしょうか。

 

何かを好きになることは強制できませんし、したいとも思いません。

それは大前提です。

 

でも、私は落語が大好きで、落語を好きな自分としては、他の人が落語を好きになる機会がそういった一言で奪われてしまうのは悲しいです。

それ以前に、「落語を好きになること=ちょっと変」というイメージがついてしまうことも悲しいです。

 

例えば能とか歌舞伎とか、落語以外の伝統芸能にもそう言ったイメージはあると思います。その「ちょっと手を出しにくい」というイメージも含めて、伝統芸能などの界隈は成り立っているのかもしれません。

その中でも落語は、2千円もあれば寄席にいけて3~4時間分みっちりと落語が楽しめます。YouTubeにも公式のものが多く上がっています。そう言った間口の広い伝統芸能です。

 

だからこそ、落語を広められたらな、と思っています。落語家になるまでの愛情は持っていませんが、落語を周りに広めたいな、くらいの愛情は持っているので。

 

ハマる人もいるかもしれないし、ハマらない人もいるでしょう。(多分ハマらない人の方が多いでしょう。)

でも、趣味ってそういうものだと思います。

 

伝統芸能だとしても、それがちょっと身近でなくても、テレビで見なくても、Instagramで流れてこなくても。

なんとなく、落語っていう芸能があって、誰でも楽しめて、センスと手ぬぐいとできれば座布団があればどこでも楽しめるものだっていうことを知ってもらえればな〜と思います。

 

別に落語を好きなのはお年寄りだけではありません。私みたいに子供の頃から聞いているものもいます。私の弟みたいに、横で聞いていればもう趣味とは言えなくても普通に楽しめる人もいれば、私の両親みたいにいつの間にか私よりも落語に詳しくなっちゃう人もいます。

 

落語家は別に笑点大喜利(日曜夕方にカラフルな着物を着た人たちが座布団を取り合っているあれです)でいい答えを言うことが目標ではなく、落語でちょっと疲れた人たちを幸せにすることを目標としている…と思います。

少なくとも、私の読んだ落語家さんのインタビューではそう答えている人が数人いました。

 

ちょっと疲れた時、悪口を聞きすぎちゃった時、そんな時にふっと聞けるのが、落語だと思っています。

たくさん笑えて、時々泣けて、ちょっとしんみりして。

それで何もない時に聞くようになれば、落語好きに仲間入りです。

 

好きなものを自由に好きと言える環境、好きなものを否定されない環境。

私も、別に否定されたことはありませんし、好きだといってきました。

でも、ジャニーズが好きと言うのと落語が好きと言うのではハードルの高さがちょっと違うんです。そのハードルの違いがなくなっていけばいいな、と思っています。

 

 

…落語って、どうやったら広められるんだろ。何かしたいけど、あまり思い付かない。

というか、これで勝手に友達に布教して、面白くないとか言われちゃったらどうしようって考えてしまいます。

まだまだ落語愛が足りないのか、単純に臆病なのか。

多分臆病なんでしょう。

せっかくの長い夏休みなんですから、この期間の中で考えていきたいです。

 

とにかく、落語が好きで、落語があまり浸透していないというか、同世代で聞いたことのある人が片手の指でも余るくらいにしか知らないのが、悲しいなぁと思っています。

落語家さんの方々が自ら「あってもなくてもいい職業じゃない、なくてもなくてもいい職業なんだ」って言っているのを聞いたことがあります。なくてもいいのかもしれないけど、あった方がいいから数百年続いているんです。

落語を好きになる人が増えていってくれれば、もうこれ以上のことはありません。

 

と言うことで、本当に雑多なことを書いてきました。

この頃中身のない記事ばっかりだなとも思いますが…。でも、好きなことについて書くほど嬉しいことはありません。今までも書き手の自分のために記事を書いてきたので、申し訳ありませんがお付き合いくださると嬉しいです。ここまで読んでくれた方達には、本当にお礼しかないです。

 

最後までお読みくださりありがとうございました。もし、少しでも「あれ、落語って面白いのかな?」と思ってくださった方々は、ぜひYouTubeで「落語」って検索してみてください。この下にも、いくつかとっつきやすいと私が思った落語を貼っておきます。ぜひ!

 

 

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7/2夜:日記 落語について書き留めてみる

こんにちは!もう夜ですが、今日はささっと記事を書いていこうと思います。

めちゃくちゃ雑な記事になっていくかとは思いますが…。

 

 

さてこの頃、私は笑点や落語を見ることが突然のマイブームとなっています。

もともと小学二年生の時から落語は大好きで、落語芸術協会のファン感謝祭である芸教祭りに行ったりだとか、寄席に通ったりだとか、よく落語を聞いていました。

やっぱり一番お茶の間に浸透している落語家さんといえば日テレで日曜午後に放送されている笑点の出演者さんですが、笑点も小さい頃からテレビがないにも関わらず祖父にDVDにしてもらったりなんかしてよく聞いていたのを覚えています。

 

夏休みにはいり暇になった今、なぜかその落語ブームが自分の中で再燃。

ブームといっても東京から引っ越す中一の終わりまではたびたび寄席にも行っていましたから、もう前は立派な趣味でした。

東京を離れてからは寄席もないので、いく機会は滅多になくなりました。もう今では覚えたことはほとんど忘れない母親や、行き帰りの車の中で落語を聞くこともある父親の方が落語を聞いていると思いますが、久しぶりにYouTubeでも聞くと、やっぱり落語っていいものだなって思います。

落語そのものでなくても、例えば真打昇進の口上やなんかを聞いていると、つくづく話がうまいなと感心します。生かせればいいなと思うものの、そこまでのコミュ力が自分にないためただ憧れるだけになっていますが。

 

私が好きな噺家さんは柳家喬太郎さんで、何回か寄席に通って最後にはお会いしてサインをいただきました。その時のサインは大事にしまってあります。

また、芸協祭りでは桂歌丸さんにサインをいただいたり、周りから「子供なのに渋いね」と揶揄われるくらいには落語が好きでした。

 

何で今日突然記事を軽い気持ちで書こうと思ったかというと、今日がちょうど桂歌丸師匠の命日だからです。

2018年7月2日に逝去されたため、今回が4回目の命日でした。

歌丸師匠といえば、笑点で濃い緑の着物を着て司会をしているイメージがやはり強いかと思いますが、笑点なら回答者としての薄緑の着物を着た歌丸さんも大変好きで、今もよく見ています。

また、噺家としては上品な古典落語をされるかと思いきや晩年は三遊亭圓朝の怪談噺を通しでやられたことが有名かと思います。実際に演じられているところを拝見したことはないのですが、よく竹の水仙なんかをYouTubeで見ています。

 

歌丸さんが亡くなられた今日が、ちょうど私の他界隈での推しの誕生日でもあり、物事がどんどん変わっていくというか、人は生まれて死ぬんだということを改めて感じた日でした。

 

落語界も、私が知っているのはほんの少しではありますが、少しずつ変わっていっているなぁ、という気がします。

テレビでの変化だと、笑点メンバーも桂宮治さんが二代目三平さんの後に入られ、席順ががらっと変わりました。家にテレビがないので今放送されている笑点を見ることはほとんどありませんが、また旅先などでちょこっと見られることを楽しみにしています。

 

そして、気づけばさまざまな噺家さんたちがYouTubeをやっていることにも驚きました。

大御所で言うと桂米助林家木久扇師匠など。

他にも林家たい平春風亭一之輔柳家花緑林家つる子桂宮治まで、協会問わずさまざまな噺家さんたちがYouTubeを始めています。

大体2,3年前くらいからどんどん増え始めたイメージですが、こうした形で好きな噺家さんの一面が見られるのもまた嬉しいものです。

 

また、寄席としての変化だと、円楽一門会(5代目圓楽から始まった落語団体)のメンバーが6代目円楽をはじめとして、少しずつ芸術協会の客員などとして寄席に参加するようにもなってきました。

コロナのおかげで寄せの在り方も変わってきていますし、知れば知るほど寄席にまた足を運びたくなります…。

 

この夏休みに、せっかくだから東京に行って落語を聞きたい!!とは思うのですが、他の予定もありなかなか都合をつけるのが大変です…。さすがに落語を聞くためだけに東京へ日帰りできるほどの小遣いはないですが、夏の東京はいわゆる大物と言われる噺家さんがたくさん出てくるので、本当に行きたい気持ちでいっぱいです!!!

 

どんどん若手の真打も増えてきている今、前座・二つ目は数としては減っているとも言いますが、また新しい波が来るかもしれません。これからも端の方から応援していきたいなと思っています。

 

ちなみに落語界での若手って60歳でも平気で若手になりますから、そう考えると恐ろしいです…。一回は落語家になってみたい!なんて思った時もありましたが、人生捧げる覚悟はまだないので、とりあえずは延期しておきます。

 

と言うことで、取り止めもないままに落語に関する記事を書いてきました。鬼籍に入られる噺家さんもこの頃本当に多く暗い気持ちになる中、YouTubeへの進出やクラウドファンディングを使った寄席への支援など、どんどん新しいことを進めていっている側面もあります。

これからも落語を楽しんで、時には寄席にも足を運んで!!!!いこうと思っている次第です。

 

最後までお読みくださりありがとうございました。もしもこんな取り止めのない記事でも興味を持ってくださったという優しい方がいましたら、ぜひ下に貼っておきます噺家さんのYouTubeチャンネルなどをのぞいていただければと思います。それでは、おやすみなさい!

 

 

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死刑制度について考えてみる:『ぼくらの時代の罪と罰』

こんにちは。

今日は、久しぶりにブクレポを書いていこうと思います!

 

今回読んだ本は、森達也さんの『ぼくらの時代の罪と罰です。

ミツイパブリッシングから出版されている本で、230ページくらいあります。

 

 

著者の森達也さんは広島出身のドキュメンタリー・ディレクター兼ノンフィクション作家の方です。オウム真理教信者たちの日常を描いた映画、『A』を皮切りに、様々なドキュメンタリー映画を作ってきました。著書も多く出版しており、主に命に関するもの(特に死刑)を題材としています。

 

そんな森達也さんの出版された『ぼくらの時代の罪と罰』(2021)は、死刑とは何かを考えながら書き進められている、命についての本です。

 

目次

 

誰でも読める、読んで欲しい本

 

みなさんは、死刑についての本とか、命に関する本とかは読みますか?

私は正直、あまり読みません。基本的に残酷な描写がある文章が得意ではなく、人が死ぬとわかっているものには食指があまり動かないというか…。実際に起こった事件(オオウム真理教など)については調べても、ネット上で終わらせることが多いです。

 

だから、死刑問題についても知ってはいても、それに関する本を読んだことはほとんどありませんでした。

この本は小説ではなく死刑制度についての実際の事象を書いた本です。

子供向けに描かれた本ではありますが、死刑制度の現状とその問題点についてわかりやすくまとめられているため、入門書として誰でも読める本だと思います。

 

5章に分けて書かれている内容は、

  • 罪の重さを決めているのは誰なのか
  • 死刑になることで得られるものとは
  • 見えない極刑とは
  • 他の国での死刑はどうなっているのか

などなど。

 

あくまでも上記のように子供向けの本ではありますが、内容は決して見過ごせるものではありません。

 

死刑を選んでいるのは裁判官?それとも私たち?

 

死刑についてしっかりと考えたことのある人が、どれくらいいるのでしょうか。

日本で「死刑はやむを得ない」と考える人は、2019年度の内閣の調査によると80%

あなたがどう思っているかにかかわらず、今日本では「国民が死刑を選ぶ」制度になっています

 

私たち自身が、死刑を選んでいるのです。

 

本書にはこう書かれています。

 

ここであなたに考えてほしい。

死刑を廃止したほとんどの国では、死刑を廃止する前の存置派と廃止派の割合は、大体六対四と共通しているのに、今の日本では8割以上が死刑存置を主張して、廃止を求める人は1割にも満たないということの意味を。

-p162

 

私は、まだ死刑に対しての自分の意見がありません。

だからこそ、上記の文章は少し怖いです。

このまま自分の意見がないまま進んでいけば、変化を求める理由がないまま死刑存置に傾いてしまうのかもしれないからです。明確な理由なしに。

 

この問題は一朝一夕で答えが出せるものではないのでしょう。

でも、自分の中で理由がないまま、人を殺すことを黙認してもいいのでしょうか

 

大事なのは自分たちで考えること。

 

この本の素晴らしい点は、筆者が自分の意見を明記しているところです。

筆者は、繰り返し死刑に対して反対意見を述べています。賛成側の意見も述べて居ますが、自身の意見を明記しながら話を進めています。

 

でも、その考えを私たちに押し付けて居ません。

 

これは僕の意見。つまり僕の視点。立場が違う人は、きっとまた別の視点を持ち、別の意見を持っている。

 

自分の視点をごまかすことはできない。薄めることもしたくない。僕は思いきり自分の意見を書いた。もう一度書くけれど、あとはあなたが考えること。僕だけでなく、色んな人の意見や視点を知ったとき、死刑という制度は、きっとあなたにとって、今よりはずっと立体的なものになっているはずだ。

-p190

 

 

あくまでも、死刑について考え、じぶんの意見を持つためには知ること、調べることが大切だと述べて居ます。この本のみではなく、さまざまな意見を調べてくれ、と。

もしもこの但し書きがなかったら、少し偏りすぎている本になって居たでしょう。でも、この但し書きによって少なくとも私はもっと調べよう、という気持ちになりました。

 

事実をただただわかりやすく、丁寧に解説している

 

死刑制度以外でも、今の裁判員制度の問題など、司法に関することはいくつも書いてあります。ノルウェー訪問時の筆者の驚きなどもありました。

さまざまな人の証言などもあり、細かい部分まで知ることもできます。

 

絞首刑は平均14分、最長で37分以上かかること(アメリカでは絞首刑はひどい苦痛を与えることを理由に廃止済み)。

死刑囚は毎朝、近づいてくる看守の足音にビクビクしながら過ごさなければいけないこと。(死刑執行の数時間前に伝えられるため)

下手したらそれが何十年も続くこと。

自殺はしてはいけず、必ず殺されなければいけないこと。

自分が加害者になる可能性は、思っているほど低くないこと。

OECDの中で死刑を今でも全国で実施しているのは日本のみということ。(アメリカは州のうち半分近くが廃止を表明、韓国は24年も実施しておらず、他は死刑廃止国。)

冤罪は実際に起こること。

死刑に犯罪抑止効果がほとんどないこと。

 

他にもいろいろ、勉強になることが書いてあります。

列挙したものを見てもわかるように、この本は死刑反対の意見をベースにして書いています。

つまり、もっと色々な意見がある。もっと知らなければいけないことがある。

この本と、死刑賛成派の人の本を二冊読めばいいという話でもありません。人それぞれの考えがあります。

 

こうした死刑に関する事柄を知りながら、死刑が進んでいく今の状態を見るべきだし、死刑について考えるべきだと思います。

死刑反対の人もいれば、賛成の人もいるでしょう。でも理由を知らずにどちらかになれるほど単純な問題ではない。だからこそ、死刑について調べなければいけないな、と感じました。

 

まとめ

 

ということで、今回は『ぼくらの時代の罪と罰』について書いてきました。

この方がさまざまな人をインタビューして書いた、『死刑』という本があるそうです。

 

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次は、この『死刑』と、他にも図書館で数冊見繕って借りてきたいと思っています。

最後に、読んでいて印象に残った部分を抜粋。

 

でもぼくは、死刑制度をめぐって多くの人に話を聞き、日本だけではなく海外の刑務所や裁判所なども取材したけれど死刑が必要であるとの理由をいまだに見つけることができずにいる。

ただし廃止すべきと考える理由は、ずっと変わらない。

 

どんな状況であっても、人は抵抗できない人を殺すべきではない。

 

これに対抗できる論理に、ぼくはまだ出会えていない。これだけ探したのに。

 

 

何度も言うように、これは著者の意見。予備知識なしにこの本を読めば私のように死刑制度に大きな違和感を持ちます。でも、そこで死刑反対にすぐになるのではなく、自分の意見に理由がもてるくらい調べ、自信がついてからなるべきなのではないでしょうか。

 

最後までお読みくださりありがとうございました。もしも興味を惹かれた部分があれば、ぜひ調べてみてください!この本はとてもおすすめです!!

高校に入って気づく、自分自身のこと

 こんにちは!今日は、備忘録がわりに自分が今興味があることについて書いていこうと思います。

 今までずっと公立校にいて、高校から私立のインターに行ってはや一年。

この一年で、自分の興味のあることや、進路について少しずつ考えることが増えてきました。今日は、その中から少しずつ感じたこと・考えたことについて書いていこうと思います。

 

今日話す内容は、こんな感じになっています。

 

それでは、早速書いていきます!

 

理系と文系:決めなきゃいけない?

 

まずは、このテーマについて。

「理系」と「文系」という言葉は、特に高校生や大学生にとっては聞き馴染みのある言葉なのではないでしょうか。

高校生からは進路も理系か文系かによって変わりますし、大学も基本的には理系・文系で別れています。

私のいるインター校、ISAKでは、国際バカロレア教育法(IB)を採用しています。用意されている教科から6科目を選び学習していく教育法なのですが、ここでも理系、文系といった区別が地味にありました。

6科目しか取れませんから、当然取れる教科に制限はあります。例えば言語や歴史、政経などはいわゆる文系と言われる"Humanities"に分類されますし、科学や数学、情報関連は理系として”Science”に分類されています。

ちょうど3-3で取ればどうなるのかはわかりませんが、4-2だったりすると偏っているため、文系・理系となんとなく分類されてしまいます。また3-3でとっても、IBの教科はそれぞれ High Level (発展的内容)と Standard Level (基礎的内容) に別れているため、HLがどちらに何個あるかでも文理をなんとなくつけられます。

 

私自身は4-2で文系科目を多く取り、HLも文系に2個、理系に1個です。なので、周りには「文系」と言われることが多いです。生徒からの学習的相談に乗る先生も、「Humanities系なんだね」と言ってきました。

 

ただ、個人的にはこの「理系」「文系」に少し違和感があります。

単純に文系の授業を多くとっているから「文系」ということは別に間違ってはいないのですが、私はあまりこの言葉が好きではありません。確かに、私は昔から本も多く読んでいるし、言語や歴史にとても興味を持っています。だから、文系と言われることは間違ってはいないのかもしれないです。それでも、文系と言われると違和感が。

文系、理系という言葉を使っている人について書いているわけではなく、自分がそう呼ばれたくないな、というだけの話ですが…。

 

なんというか、私はちゃんとした日本の教育を中学校までしか受けていません。中学の時点で文系・理系がしっかりわかることはあまりないと思いますし、私も全教科同じような出来でした。高校に行ってもう少し専門的な教育を受けた後で文系・理系に別れることはまだわかりますが、ISAKではあまり学習指導要領に沿った勉強をしないため、自分が文系なのか理系なのかはわかりません。

 

そして、私は確かに言語や歴史に興味があるし好きだけど、それと同時に数学や化学も好きです。中学校でも一番質問を聞いていたのは理科でしたし、数学はIBでもHLを撮りました。

つまり、文系教科も好きだけど、同じように理系科目も私は好きです。だから、「文系」が「文系寄りの科目を多くとっている」という意味のみだとしても、あまり「文系」と言われることが好きではありません。理系科目も好きなので、ちょっと複雑だからです。

 

もちろん、完璧に「自分は理系/文系」と言い切る人もいますし、それは本当に人それぞれだと思います。まだ私は「文系・理系」に分類されるほど勉強していないので、実際に勉強して自分の得意なもの、好きなものを自覚できれば抵抗はなくなるんじゃないかな〜と思っています。

 

 

「日本」と「海外」の大学

 

これもまた分類の話になるのですが、ISAKももちろん高校なので進路の話がよく出てきます。大学はどうするのかとか、そもそも大学に行くのかとか。

 

話を聞いているときに私が少しだけ引っ掛かるのは、生徒の多くが「日本」の大学に行くのか「海外」の大学に行くのかを聞いてくること。それ自体は何の問題もないのですが、人によっては「絶対に日本の大学にはいきたくない」という人もいます。

 

ISAKを目指してきた生徒が集まっていますから、特に日本で教育を受けてきた人たちは日本の教育に少し疑問がある人も多いのでしょう。

私も、そういった人たちに囲まれていると少しずつ「日本の大学に行くのは悪い選択なのかもしれない」という考えに慣れてしまいます。

 

でも考え直してみると、私は一度も日本の教育方法(いわゆる「知識を詰め込む教育」)で不利益を被ったことがありません。どちらかというと、順応して楽しんでいた方です。

自分の中に確固とした意見がないのに、周りの意見を聞くだけで自分も大学を選ぶ基準を「海外」「日本」にすることは避けたいな、と思いました。

日本の教育方針をそこまで忌避したいわけでもないのなら、「海外」「日本」で選ばずに、「自分がやりたいことを追求できる」とか「充分な学費がある」とか「尊敬している教授がいる」とかで選ぶべきだと思っています。

ついつい「海外の大学」とか「日本の大学」とかの言葉を使ってしまいますが、海外も日本も関係なく自分のやりたいことを学べる場所に行くのが私の中で一番大事なことです。

 

私の周りには、日本の教育に疑問を持っている人が多くいます。かくいう私もISAKでの教育の仕方に興味があったからこそISAKに入りました。でも、日本の教育を苦手とするしっかりとした理由がある人たちに比べて、私はそこまで意見が強くありません。

ちゃんとした意見もなく、何なら小中学校の勉強を悪感情も無く楽しんできた自分が、「日本(もしくは海外)の大学だから行かない」と学ぶ場所を選ぶことは避けたいです。

周りの選別の仕方に慣れていくと、無意識に合わせてしまうこともあるかもしれません。だからこそ気をつけていかなければな、とこの頃感じました。

 

 

知識が大切、だけれども

 

3つ目は、「知識」について。

知識を詰め込むことを楽しんできたと言った通り、私は知識を得ることが楽しいです。

本を読むことも、ドキュメンタリーを見ることも好きだし、もちろん勉強も好きです。雑学もちゃんとした勉強も、ふとした時に知識と知識が繋がる瞬間はいつも本当に楽しいので。

 

だから東京国立博物館に行けば行くほど自分の知識のなさを痛感しますし、色々な美術館に行くときは作品の解説もじっくり読みます。少し前にISAKのの近く(上田)で行われていたアルフォンソ・ミュシャ展にいきました。ミュシャの絵をしっかりと見るのは初めてだったのですが、スラブ叙事詩など後半生の作品もパネルで解説してあり、とても楽しめました。

 

学校で生活していても、しっかりとした裏付けをせずに何かを明言している発言にはまず疑問を抱きます。例えば「日本の教育だとアイヌ琉球民族などの先住民について学ばないだろう」と言われた時は、何を根拠に発言しているのか、どこの教育と比較しているのか、そこに主観は入っていないのかなどを真っ先に感じました。というか、中学校で数度に分けてアイヌ琉球について勉強するので、その発言は単純に間違いですが。

 

というように、私は自分でも知識をかなり重視していると思っていますし、それが悪いとは思いません。

でも、そちら側に重心を傾けすぎていても問題が出てくるのかもしれないと薄々感じています。

それを強く感じたのは、この前磯谷博史の展覧会「動詞を見つける Find Your Verb」に行った時です。

 

bijutsutecho.com

 

この展覧会は、コラージュや写真などの作品を一つの出来事として認識し、「動詞を見つける」ことに観客を誘っています。「落ちる」「まざる」など、さまざまな時間の移り変わりやものの変化が現れていました。印象に残った作品もあったので、以下に写真を貼っておきます(撮影OKでした)。

 

 

作品一つ一つは見ていてとても面白かったのですが、全体を通して何とも言えない不思議な雰囲気がありました。作者の狙いはなんと無くわかるけど、どこか一歩足りないというか、多分作品をしっかりと楽しめていないな、と言った感覚。よくわからないところもあり、なんかモヤモヤするというか…。

 

私は基本的にいわゆる現代アートが所蔵されている美術館にはいきません。自分が好きな絵画はルネサンス絵画で、それ以外でも大抵は写実的なものか解説があるものを好みます。

それは、絵を見て楽しみ、その後知識を得てもう一回楽しむやり方に慣れているし、そのやり方が好きだからです。

 

だから、自分にここまで解説のないものを楽しむ力がないとは思いませんでした。ある程度は楽しめても、あと一歩が楽しめない。

いわゆる現代アートは、難しいことを考えずに、自分がその作品で感じたことをそのまま受け止めることが大切だ と何かで読みました。わからないと感じたなら、そのわからないと感じることも現代アートを楽しむための第一歩 だと。

多分私は現代アートを見て何かを感じても、その裏付けというか、正解を求めてしまうんだと思います。正解のないものがあまり得意ではないのかもしれません。自分の思ったことに自信が持てないから、「もっと知りたい」という気持ちもなくなり、後には違和感が残る。そう言ったループなのかも。

 

現代アートでも、見ていて楽しい作品もあります。でも、かなりの頻度でこんがらがってしまう。それは、今まで知識だったり解説だったりを使いながら作品を楽しんできた弊害なのかもしれません。知識があればより楽しめる作品を中心に見てきたからこそ、その道から外れた時に自信を持って楽しめない。

 

別に解説を読むやり方を好きでいても問題は何もないと思うけど、あまりにそれを重視しすぎて他のやり方を楽しめないのは何か違うと思います。

一番良いのは、どんなやり方でも楽しめること

時には自分の考え方に自信を持って、よくわからないと思った作品でも一回前提を取っ払って自分だけで考えてみることが大切なのでしょう何でも楽しめるような人間になりたいです。

 

と言っても、あまり自分から現代アートを見に行くことはないとは思いますが、今回感じたことを忘れずに、これからも色々な作品を楽しんでいきたいです!

 

*というふうに、偉そうに「知識を使って」だとか「解説のある作品」だとか言ってきましたが、たった16年しか生きていないので、別にそこまで知識があるわけでもありません。他に言い表せる言葉が見つからなかっただけでそこまでしっかり美術を勉強しているわけでもないです…。

 

 

ということで、3つの内容について書いてきました。自分の感じたこと、考えたこと、あまり振り返ることもまとめることもないので、少し新鮮でした。普通に生活していても、学校でも家でも他人と一緒にいるわけだからどこかで新しい考え方に触れます。

そう言った時に、それに釣られすぎず、反発しすぎず、自分の考え方をしっかり確立していくことが大切になってくるのでしょう。

 

最後までお読みくださりありがとうございました。ここまで読んでくださる方がいることが本当にありがたいです!この頃完璧に自分のために記事を書いているので…(笑)

UWC ISAK Japan -結局どんな学校?一年のまとめ

 こんにちは。今日は、私の在籍している学校、UWC ISAK Japanについてまたまた書いていこうと思います。

 

ISAK内のツリーハウス

 

UWC ISAK Japanとは、UWC系列の学校で、軽井沢にある全寮制のインターナショナルスクールです。高校1年生〜高校3年生(G10~G12)が在籍しており、夏が学年開始の時期です。

 

uwcisak.jp

 

少し前に、私の学校では卒業式が行われました。そして、その後二週間の授業が高校一年生と二年生にはあり、ようやく先日学年を修了したところです。

一年間過ごしてみて感じたことを、以下の二つの記事の総括として書いていこうと思います!

また、この記事は完璧に個人の意見ということを先にご了承ください!

 

 

記事にも少しずつ書きましたが、ISAKに行って一番分かったのは、決してどこも理想郷ではない、ということでした。

ISAKを理想の場所だと思って入学したら、度重なるコロナの影響、勉強(特に数学、理科、国語)の簡単さ、学校の仕組みも改善が必要。

同じ長野県から来たのに、ISAKに来て通算7回ほどの隔離を経験しました。それまで学校休講の時以外隔離なんてしたことなかったのに。学校も、生徒への対応が杜撰すぎて、教職に少しばかり興味があった自分からすると笑うしかないほど。

なんで学校を辞めないんだろう、という話を何回も友達としました。

 

でも、結局やめなかったのは、素晴らしい人たちがいたからです。

周りにいる友達、先輩、そしてISAKの周りにいる人たち。

そう言った人たちとの関わりは本当に楽しく、刺激的で、こちらがときには劣等感を感じてしまうほどでした。それこそ「多様性」を感じる瞬間もありましたし、日本の公立では知らなかったであろう海外の学校の実情などもいろいろ教えてもらって、考え方が変わったところもあったと思います。

 

ISAKは、本当に一長一短な部分が多いです。そして、その短所は同時に長所にもなり得ます

学校の杜撰な部分は、生徒が自分たちで変えていく様子を見ることができる長所になります。

授業のつまらないところは、自分たちが想像を巡らせて変化を作っていける部分になります。

 

そういえば、プロジェクト学習が盛んなところも、この学校の特徴の一つです。生徒は、必ず1つ以上のプロジェクトを何か抱えています。私も、学校の学習で3つ、授業外でもいくつか、やっていることがあります。

ただ、プロジェクトと言っても、自分で何をやりたいのかをしっかり考える時間はあまり与えられていません。それを学校もわかっているのか、春休み前には一週間の”spring project week”という期間が与えられます。

学校から25000円の資金を生徒が1人ずつもらい、自分で興味のある人に連絡してインタユーをしたり、オンラインコースをとってみたり。端的にいうと、自分で自由に行動して動ける期間です。お金をもらい、授業ではなく自分でやりたいことを探す。そういった時間が与えられていることは本当にありがたいです。

 

なんというか、学校にいろいろと改善点があることは否定できません。ただ、それを生徒が改善しようと動くことに寛容な学校だな、と思います。

寛容であろうとそうでなかろうと突っ走っていく生徒も何人かいますが、それでもやはりある程度までなら学校は支援してくれて、アドバイスをくれる時もある。だからこそ次の行動に移しやすい。

もちろん、やろうとしているプロジェクトによってはかなり消極的になることもあります。例えば学校の仕組みを変えようとしているときなどは。でも、そういうときには空気をいい意味で読まずひたすらに良い環境を求めて突っ走っていく先導者がいたりするので、これからの2年間でどう学校が変わっていくのかが本当に楽しみです。

 

今、ISAKを知り合いの子に推薦できるかと言えば、「合う人と合わない人が完璧に分かれる学校だと思う」としか言えません。自分が、絶対にこの学校にあっている!という確証を持てないので。自信を持って自分のいる学校を知り合いにお勧めできるようになるまで、ISAKの変化をできる限り支えたいな、と思っています。

 

ちょうど今、ISAKの体制は少しずつ変わっています

というか、今まで届いていなかった生徒たちの意見がだんだんと届くようになっています。まだ全然安心はできない状況ですが、それでも少しずつ変化が生まれていっているのは確かです。

そういった変化はISAKだからこそ見れる醍醐味です。クラブも行事もそうだけど、いい意味でも悪い意味でも行動するのは生徒です。だからこそ生徒の「自主性」に注目がいきやすいし、だからこそ安全管理などで驚くことも時たまある。問題点もあるけれども、生徒が大抵動きやすい環境という言葉に嘘はありません。

 

結局、今までダラダラとISAKについて書いてきました。

いろいろと愚痴というか、マイナスなことも書いてしまいました。

ISAKのマーケティングは本当に上手なので、期待して入ってきた分少しがっかりしてしまう人も多くいます。そう言った悲しいことがないよう、ISAKの実情もどんどん変えていきたいと思っていますが、それでも予防線のためにここでマイナスのことを書いておいてもいいかなと思ってのことです。

 

「え、じゃあISAK入んない方がいいの…?」って思った人もいるかもしれません。私も、もう一回ISAKを受験しろと言われたらかなり悩むかもしれません。でも、結局はISAKを選ぶと思います。というか、なんならもう一回ISAKに入って、今度は早い段階から学校の問題点の炙り出しを進めていくかも。

この頃は、なんで今取り組んでいることを冬ごろからできなかったんだろう、と思うことが多いので…(笑)

 

 

まとめとして、私の感じたISAKでの一年間の総評を。

私が今の学校にいてよかったと感じる点は、場が用意されていることです。

生徒が何かをしてもそれを容認する余力が学校にあります。いろんな意味ですごい人が、学年に何人もいます。というか、そういう「すごい人」が集まる学校です。

そういった「すごい人」を集めて、野放しにしている学校もさすがだなと感じます。

 

何かやりたいと思ったときに、少なくとも場所がないから、と諦めることはありません。応援してくれる人も、話せば絶対に見つかります。

だから、その与えられた場をどう使うかは全て自分次第です。燻ってしまう人もいるかもしれないし、その場を有効活用して人生の学びを得る人もいるかもしれない。ある地点までは引っ張ってくれるけど、そのあとは全部自分で決めていかなければ何も変わりません。

最初から、全部自分で完遂できる人なんて一握りです。だから、周りの力を借りながら、自分で進んでいきます。

「場」が用意されていることは、当たり前のようでいてそうでもありません。

その「場」を楽しみながら、自分で利用していくことが来年度の目標です。

自分がしたいことを、したいようにする。

 

 

ということで、ISAKの感想の総括のようなものを書いてきました。割とネガティブなことも書いてしまったと思いますが、最後にこれは全て個人の感想だということを強調しておきます。

私はISAKに入れてよかったとも思っていますし、一つの道を選べば自動的に他の選択肢は消えていきます。そのことがしっかりわかっていれば、私が今まで書いてきたISAKへの愚痴は、本当にただの愚痴でしかありません。「場」はあるんだから、どう変えてくかは生徒の力量にもかかっています。

 

来年からは、新しい勉強と授業も始まります。

どうなるかはわからないですが、どうなっても一生懸命目の前のことに取り組んでいくだけです!今年は、自分個人としても反省しなければいけない点がたくさんありました。その反省点を活かして来年もがんばります!

 

最後までお読みくださり、ありがとうございました。コロナに気をつけて、お過ごしください!