こんにちは。今日の記事は、メモがわりの記事となります。
なんと、なんと、この夏は家族で太宰治の出生の地、金木町に行くことになりました!!!やったああああああああ!!まだ行く大学が定まっていないこと(詳しくはこちらの記事)もあり、ちょっと直前までどうなるかわからなかったのですが、家族会議の末予定通り行くことに!
今回は、そんな超楽しみな旅の前に、軽く太宰について復習をしがてら、家族への青森説明会の準備をしていこうと思います。
これから金木に行く予定がある、もしくは行ってみたいと思っている方の中で、「どんな本を読んでから行けばいいの?」「金木のどこに行けばいいの?」「そもそも太宰と金木の関係は?」などと思っている方がいらっしゃれば、少しでもこの記事がお役に立てればな、と思います。
私が太宰にはまった経緯
太宰と青森の関係についてここでまとめる前に、ちょっとだけ自分の太宰愛を。早く本題に入れよ!という方は、お手数ですが、目次から「太宰治と金木」に飛んで下さい!
私は高校に入る前、中学校を卒業した後の6月ごろ(高校は8月入学)に、太宰治の『女生徒』を読みました。ある女生徒の日記をもとに、太宰が少女の1日を描いた短編です。
それまで太宰を全く読んでこなかったわけではなく、『走れメロス』や『人間失格』『斜陽』などの超有名な作品には一応手を出していました。特に『人間失格』は中学一年生の際に読書感想文にも使用したため、ある程度読み込んでいたつもりではありました。
ですが、『女生徒』を読んだ時に太宰の文章の幅の広さに驚かされ、また自分の心にぐっと突き刺さるような心情描写に惹かれ、そこからは太宰作品にのめり込みました。
毎日家にある短編集を読み、ついに『桜桃』に出会います。『桜桃』は、わずか10ページに書かれた家族のお話で、太宰が最後に残した短編小説です。
この作品の雰囲気や内容はもちろん、一つの段落にのみ連続して使われた二つの記号「!」が心に強く残り、その時に「あ、私は太宰が好きなんだ」とはっきり自覚しました。心に残る作品はいくつもありますが、この作品はそんな中でも特に忘れられない作品です。この時書いた感想記事も、途中から言語化ができなくなっていますが、衝撃を受けたことが見て取れます。
その後も着実に太宰作品を読んでいき、何が好きなのかはいまだにうまく言語化できないままにもう3年の月日が経っています。
ISAKに入学する前に親に贈ってもらった本は太宰の言葉をまとめた本でしたし、高校2年生になる前の夏休みでは三鷹市にある太宰のお墓にお参りしました。高校3年生の冬休みには三鷹の太宰治文学サロンをはじめとするゆかりの地を訪ねました。
そして、高校を卒業した後の夏休みである今、太宰の生誕の地、青森に家族で行くことに。
そう思うと、長い付き合いになりつつあります。
今でも一番記憶に残っているのは『桜桃』ですが、そのほかにもいくつも好きな作品が増えていきました。特に、学校の課題で使用した『トカトントン』は、高3になる前の夏休みを使って論文や文献をネットと図書館を活用して読み込んだので、思い出深い作品です。
それでは、太宰治はいつの時期に青森県にいて、どういう関わり方をしてきたのでしょうか。
太宰治と金木:小学校まで
太宰治、本名津島修治は、1909年6月19日に青森県の北津軽郡金木村、現在の五所川原市金木町に生まれました。
1909年は、明治の後期。韓国併合の直前、伊藤博文が暗殺された年でもあります。
太宰の父親は当時県議会議員、太宰が3歳の頃には衆議院議員になるという、地元の名士でした。そんな中、太宰は10番目の子供として生まれます。
今も「斜陽館」として多くの観光客が訪れる津島家の旧住宅は1907年に建てられました。つまり、太宰は斜陽館で生まれた最初の子供。
その頃太宰の父親は衆議院議員になる直前で慌ただしい生活を送っており、母親もそんな父親につきっきり。兄弟も多くいましたが、すでに県内外の学校に通っているため、特に日中は大きな屋敷の中で乳母や叔母、女中とのやりとりが多かったそうです。
気になって調べてみたところ、津島家は太宰の下に生まれた弟を含めた11人兄弟を擁す大家族。男子7人女子4人ですが、太宰が生まれる前に長男と次男はすでに死去。長女も太宰が3歳の時に亡くなっています。
旧津島家住宅は、3つの蔵や泉水付きの庭園も敷地内にある豪邸。そんななかで叔母や女中に世話をされていた太宰は、自分が本当は叔母の子供なのではないかと真剣に考えていたとか。
太宰が24歳の時に執筆した短編小説『思ひ出』にはこんな文章も。
曾祖母、祖母、父、母、兄三人、姉四人、弟一人、それに叔母と叔母の娘四人の大家族だつた筈であるが、叔母を除いて他のひとたちの事は私も五六歳になるまでは殆ど知らずにゐたと言つてよい。
もちろん脚色が入っている可能性は否めませんが、その後の作品にも暗い影響を与えていそうな幼年時代です。3歳から小学校に入る6歳までは女中のタケが日中子守を務めていたため、昼はタケと、夜は叔母と過ごす生活。小さい頃から不眠の癖があり、叔母に昔話をしてもらいながら寝ることが多かったようです。
タケは太宰より11歳年上の少女。青森を離れた後も会うなど、太宰ファンにとっては馴染みの深い名前ではないでしょうか。
叔母のキエは1916年冬に五所川原に引っ越し、タエもそれについていきます。太宰も小学校に入学するまでの2ヶ月間はキエとともに五所川原にすみました。この時過ごした家が、現在「太宰治『思ひ出』の蔵」として一般公開されています。
太宰治と金木:高校まで
1916年に入学した小学校で、太宰は優秀な成績をおさめました。小学5年には文学を将来の夢と志すようになり、1923年の中学入学後に上京していた兄からもらった井伏鱒二の『幽閉』(のちに『山椒魚』と改題)に衝撃を受け、同人誌を刊行するようにもなります。1925年、16歳の頃に友人たちと『蜃気楼』を発行。さらに、1926年には三男の津島圭治主催、長男文治(当時28歳、金木町長)出資の元同人雑誌『青んぼ』も発行しました。
ちなみに、中学入学と同時に太宰の生活も少し変わり、下宿生活が始まりました。この際の下宿先は、叔母キエの亡くなった旦那さんの実家でした。また、小学校を卒業した頃に父親が肺癌で鬼籍に入っています。
1927年に入学した高校も実家から離れて暮らしますが、高校の決まりからは少し外れて、津島家の親戚の元(現在の「太宰治まなびの家」)で暮らします。その夏、入れ込んでいた作家である芥川龍之介が「唯ぼんやりとした不安」という言葉を残し自殺。ショックを受け、しばらく閉じこもっていたそう。
その後プロレタリア文学を執筆するようになり、1928年には小山初代と出逢います。1929年1月はじめには、弟の礼治が敗血症で亡くなりました。
この弟について、太宰は『思ひ出』の中でこう語っています。
私はこの弟にだけはなにもかも許した。私はその頃、人と對するときには、みんな押し隱して了ふか、みんなさらけ出して了ふか、どちらかであつたのである。私たちはなんでも打ち明けて話した。
幼少期は「仲がわる」かったとありますが、『思ひ出』を読んでいると、なかなかどうして、競争心あり、思いやりありの兄弟像が浮かんでくるようです。小学校の頃を一緒に過ごし、中学に入ってからも二人で行動することのあった弟の死は如何なものだったのでしょう。
また、1929年2月には太宰のいた旧制弘前高等学校で校長が公金を流用していたことが発覚。太宰はストライキにこそ散華しなかったものの、この事件をもとにプロレタリア文学を真似て『学生群』という小説を執筆。その頃のことを太宰は『苦悩の年鑑』の中でこのように記しました。
金持は皆わるい。貴族は皆わるい。金の無い一賤民 だけが正しい。私は武装蜂起 に賛成した。ギロチンの無い革命は意味が無い。しかし、私は賤民でなかった。ギロチンにかかる役のほうであった。私は十九歳の、高等学校の生徒であった。クラスでは私ひとり、目立って華美な服装をしていた。いよいよこれは死ぬより他は無いと思った。
1929年12月には、太宰、初めての自殺未遂。母と1ヶ月ほど温泉で静養しました。この自殺の理由は、上記のような、太宰自身の身分と、当時の彼のイデオロギーとの違いによるものだと考えられています。
小山初代と出逢い、弟が急逝し、左翼運動を目の当たりにし、自殺未遂を起こし…。いっぺんにさまざまなことが起こった1928年から1929年。
そのすぐ後、1930年の春に太宰は東京帝国大学文学部の仏文学科に入学します。ここから、太宰の本拠地は東京となり、実家から除籍されたり、2度目、3度目の自殺未遂を起こしたり…。1930年の秋には、太宰の文学への興味をともに育んでくれた三男の圭治が亡くなりました。
近しい人の死が相次ぐ中で、太宰はどのように精神安定を試みたのか。左翼運動に関わり、着実に政治家への道を歩んでいた兄に諌められる中で、何を優先したのか。
そこいらへんは、また別の物語となるのでしょう。
太宰治と金木:絶縁から、最後の帰省まで
太宰と青森の関係は、実家から除籍されたことで終わったわけではありませんでした。
1930年、兄の文治は、当時左翼運動にも関わっていた太宰と芸者、小山初代との結婚を認めるかわりに、太宰を家から除籍しました。要するに家との縁を切ったわけです。
経済的援助などは受けていたものの、家に顔を出さない年が続いた中、母の病気をきっかけに1941年に10年ぶりに故郷に帰ります。この際世話になったのが、「中畑さん」と「北さん」。呉服商を営んでいた中畑さんは、津島家と懇意にしていたこともあり何かと太宰の面倒を見ていたよう。北さんも品川で洋服屋を営んでおり、太宰の父や兄の洋服を作っていた縁で金銭的にも世話になっていたことが、『帰去来』という小説に書かれています。長男である文治が家にいない間を狙っての強行軍でした。
『帰去来』によると、この日は10時に五所川原駅につき、叔母と再会。その後30分ほどかけて実家に行き、祖母や母、そして次男の英治と言葉を交わし、4時ごろには金木をさっています。3, 4時間の短い帰省だったそうです。
その夜は五所川原にある叔母の家(「太宰治『思ひ出』の蔵」)で母と叔母と三人、遅くまで話をしたのだとか。
その翌年、1942年に母が重体に陥ったため太宰は家族とともに帰省。この際の様子は『故郷』に書かれています。この際は兄とも言葉を交わし、ビクビクしながらもそのまま金木の家に泊まることとなりました。
その後も、1944年に『津軽』執筆のために5月から6月にかけて津軽地方を旅行し、金木周辺での友達との再会や小泊村での女中のタケとの再会を果たしました。小泊には、今も「小説『津軽』の像記念館」があり、観光客を受け入れています。
彼の最後の帰省は、1945年のことでした。
太平洋戦争が激化する中、三鷹に住んでいた太宰は東京大空襲の後、家族とともに命からがら甲府に疎開。しかし、7月上旬に甲府も空襲に遭い津軽へ向かいました。
この際に住んだのが、津島家の離れでした。現在「太宰治疎開の家 旧津島家新座敷」として公開されています。この離れの中で、太宰は23作品を執筆。『パンドラの匣』や『トカトントン』『親友交歓』など有名な作品がいくつも生まれました。
1946年11月14日に太宰と家族は東京に戻り、1年半後の1948年6月13日、太宰は山崎富栄と玉川上水に入水。39回目の誕生日である6月19日に遺体は発見されています。
太宰治と金木:関連作品
その後の太宰の性格への影響を考えてしまうような太宰の幼少期から、家族と離れて過ごした中学時代、出会いや別れを繰り返した高校時代に、距離をとりつつ縁は切れなかった成人後。
「家では虐待されていた」「『道化』を演じていた」。
『人間失格』を読んだ方々は、太宰にそんなイメージを持っているかと思います。もちろんそれも太宰の幼少期の根幹に関わってくる要素です。
でも、太宰と金木の関係はそれだけではありません。大きい家だからこそさまざまな人の想いや考えが絡み合いつつ、親兄弟との関係が築かれていきます。
そんな、太宰と家族との関係性は、どのようにして覗き見ることができるのでしょう。何冊か、太宰の小説を紹介していきます。
その前に、必ずいっておきたいことが一つ。
太宰は自伝的な小説、私小説を主に執筆しました。さまざまな小説が、彼個人の経験と結び付けられて語られていますし実際に彼の経験が入っている箇所も多分にあるのは間違いないはずです。
ですが、それと同時に太宰の作品は「小説」であり、フィクションです。書かれているからといってそれが真実とは限りませんし、実と虚が入り乱れているのが太宰の作品だと思わないと、自然と全てを太宰と結びつけてしまいます。
作品は、一度作者の手を離れれば、もう受け手のものとなります。解釈は人それぞれですし、どう思うかは自由です。それでも、安直に太宰本人とこれらの小説を結びつけることはできませんし、それでなくとも「道化」を何度もテーマにしている太宰治の輪郭を、彼の作品を読んだだけで掴むことはできないでしょう。
だからこそ、私は太宰の生家にいってみたいですし、津軽の像記念館で流されているという、タケさんが生前太宰に関して話した映像をみたいと思っています。
そのための事前準備として、予習として目を通しておいたら面白いだろうな、という作品たちが、以下のものです。
太宰と生家の関係
『思ひ出』:生まれてから中学進学ごろまでの回想。叔母や弟との思い出、生活や恋の悩みなどが書かれている。
『兄たち』:三人の兄について書いた話。特に三男の圭治を中心に書かれている。
『苦悩の年鑑』:太宰にとっての「デモクラシイ」や「プロレタリヤ」が書かれている。彼の思想がどのように変化していったかを書いたもの。
『帰去来』:太宰を支えた人たちによって太宰が10年ぶりに実家に帰った際の小説。
『故郷』:『帰去来』の一年後、母の重体をきっかけに、一家で帰省した際の小説。
『人間失格』:言わずと知れた代表作。特に「第一の手記」は太宰の幼少の頃の経験が多分に書かれているとされている。
太宰治と身の回りの人々
太宰の生家には多くの使用人がおり、使用人も含めると津島家には30人ほどの人が住んでいたと言われます。
そんな中で特に有名なのは、『思ひ出』の中にも登場する女中のタケさんでしょう。
作品『津軽』のクライマックスも、このタケとの再会が描かれています。
小泊町には「津軽」の像としてタケの像が作られているほどです。
タケ以外にも、女中は太宰作品の中にしばしば登場します。
以前紹介した漫画『花もて語れ』でも登場するのは、『黄金風景』の中のお慶という女中。のろまな女中に嫌がらせをし続けた幼い太宰の心に残った「一生覚えております」という言葉。偶然出くわしたお慶とその家族に太宰が焦りに焦りまくるという話です。
他にも、女中ではないですが、太宰がまだ乳飲み子だった頃に病弱の母に変わって世話をした乳母、つるについて書かれた作品があります。1939年出版の、『新樹の言葉』です。
疎開の家で執筆された作品たち
太宰が疎開中に書いた作品も、青森県に行くなら読んでおいて損はないでしょう。
私が特に好きなのは『トカトントン』。復員兵士が彼の悩みを太宰に相談するといった流れの、往復書簡形式をとった短編です。この作品については去年かなーり調べたので、またどこかの機会でまとめられればな。最初に紹介してしまいましたが、疎開先で書いた最後の作品と言われています。
他には、敗戦後、新しい未来に向けた希望が書かれた『パンドラの匣』。
太宰治が東京に出てから津軽へ戻るまでの東京での15年間を振り返った『十五年間』。
一緒に酒を飲んだ小学校時代の「親友」との話、『親友交歓』。
どれも中期から後期への転換期の作品として、有名なものばかりです。一般的に太宰作品は中期が明るく、後期が病的に暗いと言われますが、『トカトントン』などはその狭間の作品だからこその面白みがあると、私は思っています。
金木訪問に向けて!!
というわけで、思ったより長くなりましたが(全ての記事でこの言葉を言っている気がします)、金木町訪問前の太宰下調べでした!
参考資料として、上記で紹介した太宰の作品以外に、以下のものを使用しています。
過去に調べて覚えていた内容を使っているところもあるため、内容の正確性は完全には担保できませんが、間違ったことは書いていないはず…。もし気になる部分や面白いと思った部分などがあれば、ぜひ調べてみてください!
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新潮日本文学アルバム『太宰治』(1983)
「津軽疎開時代の太宰文学の一側面 -戦後文学と聖書-」(長濱拓磨、2012)
『回想の太宰治』(津島美智子、1978)
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本当に、楽しみで楽しみでなりません!
実は、今回の金木訪問は一日丸ごと使えるんです!
ずっと青森に行くわけではなく、岩手と青森を数日間かけて回るんですが、私の家族は私以外あまり太宰に情熱があるわけではなく…。
というか、私以外の三人は宮澤賢治が好きなので岩手の花巻に、私は太宰が好きなので青森の金木に行くことになりました。
花巻も一日かけて巡るので、行く前に賢治作品を読んで自習しておかなければ…!!
金木の方は、一日のプランも私が立てて、なんなら間に合わなさそうだったのでその前の日にも1時間ほど親に頼み込んでねじ込んで、準備は完璧です!
行こうと計画している場所は、以下の通り。本当は少し離れた場所にも何箇所か関連施設があるのですが、時間を考えるとこれだけでもちょっと早足での観光になりそう。
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金木町:斜陽館、疎開の家(旧津島家新座敷)、雲祥寺(『思ひ出』に登場)、芦野公園
その他:太宰治まなびの家、太宰治「思ひ出」の蔵、小説「津軽」の像記念館
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うーん、やっぱり行く前に、もう少し太宰の初期の作品を読み込んでからいきたいな。ここから数日は太宰と賢治漬けになりそうですが、そのことを考えると自然と口角が上がります。あああああ楽しみ!!!
下の写真は我が家にあるニャザイとミニャザワ ~三鷹文学サロンと山梨県立文学館の太宰関連グッズを添えて~ です。
もー興奮が冷めやらぬ日々ですが、家族にひかれないよう、あと、下調べの成果を調子に乗って話しすぎて行く前から家族が疲れる/太宰作品を読まないという最悪の展開を迎えないように頑張っていきます!!
最後までお読みくださりありがとうございました。ここまで太宰に関して語る記事を書いたのは相当久しぶりのことだと思います。楽しかった〜〜!!本題を忘れそうになりますが、これはあくまでも「金木町に行く前の予習記事」です。もし同じ目的の方がいて、「行く前に何読めばいいだろう…」「そもそもどこ行こう?」などと思っている方がいらっしゃったら、少しでもお役に立てば嬉しいです!
*1:太宰の『兄たち』という短編では『青んぼ』創刊は長兄が30歳の時だとされているのですが、調べたところ1926年に創刊号が出ているらしく、1898年生まれの長兄文治は28歳のはずなため、正直よくわかりませんでした…。太宰の父親が亡くなった際の年齢は実年齢と一致しているため、創刊号が出た際の記憶が朧げだったのか、それとも脚色したのか。