うぐいすの音

17歳の女子が運営しているブログ。本のレビューなどしていきます。

高校に入って気づく、自分自身のこと

 こんにちは!今日は、備忘録がわりに自分が今興味があることについて書いていこうと思います。

 今までずっと公立校にいて、高校から私立のインターに行ってはや一年。

この一年で、自分の興味のあることや、進路について少しずつ考えることが増えてきました。今日は、その中から少しずつ感じたこと・考えたことについて書いていこうと思います。

 

今日話す内容は、こんな感じになっています。

 

それでは、早速書いていきます!

 

理系と文系:決めなきゃいけない?

 

まずは、このテーマについて。

「理系」と「文系」という言葉は、特に高校生や大学生にとっては聞き馴染みのある言葉なのではないでしょうか。

高校生からは進路も理系か文系かによって変わりますし、大学も基本的には理系・文系で別れています。

私のいるインター校、ISAKでは、国際バカロレア教育法(IB)を採用しています。用意されている教科から6科目を選び学習していく教育法なのですが、ここでも理系、文系といった区別が地味にありました。

6科目しか取れませんから、当然取れる教科に制限はあります。例えば言語や歴史、政経などはいわゆる文系と言われる"Humanities"に分類されますし、科学や数学、情報関連は理系として”Science”に分類されています。

ちょうど3-3で取ればどうなるのかはわかりませんが、4-2だったりすると偏っているため、文系・理系となんとなく分類されてしまいます。また3-3でとっても、IBの教科はそれぞれ High Level (発展的内容)と Standard Level (基礎的内容) に別れているため、HLがどちらに何個あるかでも文理をなんとなくつけられます。

 

私自身は4-2で文系科目を多く取り、HLも文系に2個、理系に1個です。なので、周りには「文系」と言われることが多いです。生徒からの学習的相談に乗る先生も、「Humanities系なんだね」と言ってきました。

 

ただ、個人的にはこの「理系」「文系」に少し違和感があります。

単純に文系の授業を多くとっているから「文系」ということは別に間違ってはいないのですが、私はあまりこの言葉が好きではありません。確かに、私は昔から本も多く読んでいるし、言語や歴史にとても興味を持っています。だから、文系と言われることは間違ってはいないのかもしれないです。それでも、文系と言われると違和感が。

文系、理系という言葉を使っている人について書いているわけではなく、自分がそう呼ばれたくないな、というだけの話ですが…。

 

なんというか、私はちゃんとした日本の教育を中学校までしか受けていません。中学の時点で文系・理系がしっかりわかることはあまりないと思いますし、私も全教科同じような出来でした。高校に行ってもう少し専門的な教育を受けた後で文系・理系に別れることはまだわかりますが、ISAKではあまり学習指導要領に沿った勉強をしないため、自分が文系なのか理系なのかはわかりません。

 

そして、私は確かに言語や歴史に興味があるし好きだけど、それと同時に数学や化学も好きです。中学校でも一番質問を聞いていたのは理科でしたし、数学はIBでもHLを撮りました。

つまり、文系教科も好きだけど、同じように理系科目も私は好きです。だから、「文系」が「文系寄りの科目を多くとっている」という意味のみだとしても、あまり「文系」と言われることが好きではありません。理系科目も好きなので、ちょっと複雑だからです。

 

もちろん、完璧に「自分は理系/文系」と言い切る人もいますし、それは本当に人それぞれだと思います。まだ私は「文系・理系」に分類されるほど勉強していないので、実際に勉強して自分の得意なもの、好きなものを自覚できれば抵抗はなくなるんじゃないかな〜と思っています。

 

 

「日本」と「海外」の大学

 

これもまた分類の話になるのですが、ISAKももちろん高校なので進路の話がよく出てきます。大学はどうするのかとか、そもそも大学に行くのかとか。

 

話を聞いているときに私が少しだけ引っ掛かるのは、生徒の多くが「日本」の大学に行くのか「海外」の大学に行くのかを聞いてくること。それ自体は何の問題もないのですが、人によっては「絶対に日本の大学にはいきたくない」という人もいます。

 

ISAKを目指してきた生徒が集まっていますから、特に日本で教育を受けてきた人たちは日本の教育に少し疑問がある人も多いのでしょう。

私も、そういった人たちに囲まれていると少しずつ「日本の大学に行くのは悪い選択なのかもしれない」という考えに慣れてしまいます。

 

でも考え直してみると、私は一度も日本の教育方法(いわゆる「知識を詰め込む教育」)で不利益を被ったことがありません。どちらかというと、順応して楽しんでいた方です。

自分の中に確固とした意見がないのに、周りの意見を聞くだけで自分も大学を選ぶ基準を「海外」「日本」にすることは避けたいな、と思いました。

日本の教育方針をそこまで忌避したいわけでもないのなら、「海外」「日本」で選ばずに、「自分がやりたいことを追求できる」とか「充分な学費がある」とか「尊敬している教授がいる」とかで選ぶべきだと思っています。

ついつい「海外の大学」とか「日本の大学」とかの言葉を使ってしまいますが、海外も日本も関係なく自分のやりたいことを学べる場所に行くのが私の中で一番大事なことです。

 

私の周りには、日本の教育に疑問を持っている人が多くいます。かくいう私もISAKでの教育の仕方に興味があったからこそISAKに入りました。でも、日本の教育を苦手とするしっかりとした理由がある人たちに比べて、私はそこまで意見が強くありません。

ちゃんとした意見もなく、何なら小中学校の勉強を悪感情も無く楽しんできた自分が、「日本(もしくは海外)の大学だから行かない」と学ぶ場所を選ぶことは避けたいです。

周りの選別の仕方に慣れていくと、無意識に合わせてしまうこともあるかもしれません。だからこそ気をつけていかなければな、とこの頃感じました。

 

 

知識が大切、だけれども

 

3つ目は、「知識」について。

知識を詰め込むことを楽しんできたと言った通り、私は知識を得ることが楽しいです。

本を読むことも、ドキュメンタリーを見ることも好きだし、もちろん勉強も好きです。雑学もちゃんとした勉強も、ふとした時に知識と知識が繋がる瞬間はいつも本当に楽しいので。

 

だから東京国立博物館に行けば行くほど自分の知識のなさを痛感しますし、色々な美術館に行くときは作品の解説もじっくり読みます。少し前にISAKのの近く(上田)で行われていたアルフォンソ・ミュシャ展にいきました。ミュシャの絵をしっかりと見るのは初めてだったのですが、スラブ叙事詩など後半生の作品もパネルで解説してあり、とても楽しめました。

 

学校で生活していても、しっかりとした裏付けをせずに何かを明言している発言にはまず疑問を抱きます。例えば「日本の教育だとアイヌ琉球民族などの先住民について学ばないだろう」と言われた時は、何を根拠に発言しているのか、どこの教育と比較しているのか、そこに主観は入っていないのかなどを真っ先に感じました。というか、中学校で数度に分けてアイヌ琉球について勉強するので、その発言は単純に間違いですが。

 

というように、私は自分でも知識をかなり重視していると思っていますし、それが悪いとは思いません。

でも、そちら側に重心を傾けすぎていても問題が出てくるのかもしれないと薄々感じています。

それを強く感じたのは、この前磯谷博史の展覧会「動詞を見つける Find Your Verb」に行った時です。

 

bijutsutecho.com

 

この展覧会は、コラージュや写真などの作品を一つの出来事として認識し、「動詞を見つける」ことに観客を誘っています。「落ちる」「まざる」など、さまざまな時間の移り変わりやものの変化が現れていました。印象に残った作品もあったので、以下に写真を貼っておきます(撮影OKでした)。

 

 

作品一つ一つは見ていてとても面白かったのですが、全体を通して何とも言えない不思議な雰囲気がありました。作者の狙いはなんと無くわかるけど、どこか一歩足りないというか、多分作品をしっかりと楽しめていないな、と言った感覚。よくわからないところもあり、なんかモヤモヤするというか…。

 

私は基本的にいわゆる現代アートが所蔵されている美術館にはいきません。自分が好きな絵画はルネサンス絵画で、それ以外でも大抵は写実的なものか解説があるものを好みます。

それは、絵を見て楽しみ、その後知識を得てもう一回楽しむやり方に慣れているし、そのやり方が好きだからです。

 

だから、自分にここまで解説のないものを楽しむ力がないとは思いませんでした。ある程度は楽しめても、あと一歩が楽しめない。

いわゆる現代アートは、難しいことを考えずに、自分がその作品で感じたことをそのまま受け止めることが大切だ と何かで読みました。わからないと感じたなら、そのわからないと感じることも現代アートを楽しむための第一歩 だと。

多分私は現代アートを見て何かを感じても、その裏付けというか、正解を求めてしまうんだと思います。正解のないものがあまり得意ではないのかもしれません。自分の思ったことに自信が持てないから、「もっと知りたい」という気持ちもなくなり、後には違和感が残る。そう言ったループなのかも。

 

現代アートでも、見ていて楽しい作品もあります。でも、かなりの頻度でこんがらがってしまう。それは、今まで知識だったり解説だったりを使いながら作品を楽しんできた弊害なのかもしれません。知識があればより楽しめる作品を中心に見てきたからこそ、その道から外れた時に自信を持って楽しめない。

 

別に解説を読むやり方を好きでいても問題は何もないと思うけど、あまりにそれを重視しすぎて他のやり方を楽しめないのは何か違うと思います。

一番良いのは、どんなやり方でも楽しめること

時には自分の考え方に自信を持って、よくわからないと思った作品でも一回前提を取っ払って自分だけで考えてみることが大切なのでしょう何でも楽しめるような人間になりたいです。

 

と言っても、あまり自分から現代アートを見に行くことはないとは思いますが、今回感じたことを忘れずに、これからも色々な作品を楽しんでいきたいです!

 

*というふうに、偉そうに「知識を使って」だとか「解説のある作品」だとか言ってきましたが、たった16年しか生きていないので、別にそこまで知識があるわけでもありません。他に言い表せる言葉が見つからなかっただけでそこまでしっかり美術を勉強しているわけでもないです…。

 

 

ということで、3つの内容について書いてきました。自分の感じたこと、考えたこと、あまり振り返ることもまとめることもないので、少し新鮮でした。普通に生活していても、学校でも家でも他人と一緒にいるわけだからどこかで新しい考え方に触れます。

そう言った時に、それに釣られすぎず、反発しすぎず、自分の考え方をしっかり確立していくことが大切になってくるのでしょう。

 

最後までお読みくださりありがとうございました。ここまで読んでくださる方がいることが本当にありがたいです!この頃完璧に自分のために記事を書いているので…(笑)