こんにちは!テスト前ですが、現実逃避も兼ねてこの頃読んだ本の感想を。
今回は、久々のブクレポ!
澤田英輔『君の物語が君らしく』の感想を書いていきます。
澤田英輔さんは風越学園の国語科の教員。2023年12月に行った「本日和」イベントなど、何回かISAK生としても関わったことがあります。楽しすぎて余韻がなかなか抜けなかった「軽井沢ブックフェスティバル」でも実行委員としてご一緒しました。
* ISAKは風越学園と同じく軽井沢に位置する私立の高校(インター)です。
もともと関係がある人の初の単著ということで、とても楽しみだったのですが、だからこそどう感想を書いていいかわからず少し時間を置いていました。
ですが、テストに向けて勉強ばかりするのも疲れてきたので、気分転換に書き進めてみます!
もう一度本の概要を簡単に。
題名は『君の物語が君らしく 自分を作るライティング入門』。
以前は中高生を相手に、今は小学生高学年を相手に国語を教えている方が書き手です。岩波の「ジュニアスタートブックス(通称ジュニスタ)」シリーズの新刊で、ライティング入門とある通り、「書くとは」「書くためには」など、「書く」ことに関する入門本となっています。
書くことが得意な人と、苦手な人へ
この本を読んで最初に感じたのは、書くことが得意な人と苦手な人に刺さってほしいという事。
例えば、2ページ目のこの文章。
特に「得意」という人には考えてほしい。
あなたはなぜ、自分は書くことが得意と思い込んでしまったのかを。
私は、自分は人よりある程度書くことが身近にあると思っているので、この文章も初っ端から刺さりました。
人と比べて、賞を取って、先生から褒められて、文章を書くようになっていないか。
道徳の時間には、一番最初には授業のゴールになりそうなところから少しズレた文章を自分の考えとして書いて、最後には先生が好きそうな、ちょっと深そうなゴールにあった文章を書いて。
国語の時間には、自分があまり感動しなくても、教訓になりそうなところを引っ張り出して自分の体験と照らし合わせて(時には自分の体験を自作して!)感想文を書いて。
特に小学生の時は、自分は書くことが得意だと思いこみ、今思えば上記のような、周りを(というか先生を?)馬鹿にしたような文章の書き方をしていました。
少し書くことが好きであれば、同じようなことをしたことがある方もいるのではないでしょうか。
自分が思ったことよりも、「求められていること」を書いた経験。
この本はライティング入門の本ですが、上手な文章を書くための本ではありません。「上手」を求めない文章を書くために手助けしてくれる本です。
それを、著者は本の中で
書くことを、自分の手に取り戻す
と表現しています。
書くことが得意と感じている人、もしくは書くことが苦手と感じている人に読んでほしい。読み終わって、そう感じました。
私は得意と感じていた側ですが、授業で、書くことに苦手意識がある人がどうしても文章を書き始められない姿も見ていました。でも、「得意・不得意」が判断されるのは、そこに文章を書く「目的」と尺度(評価基準)ができてしまっていているからです。
でも、「書くこと」は決して教室の中にとどまりません。
誰かのための文章もあれば、自分のための文章もある。見てもらうための文章もあれば、ひっそりとどこかに隠しておくための文章もあります。
「書くこと」が「得意/苦手」だと思っている人にこそ、「新しい世界を創り出す」ための文章を書く経験を勧めたい、もしくは、そういう文章があるということを知っていてほしいです。
5分で「新しい世界を創り出す」
そのための簡単なエクササイズが、この本には多く載っています。
友達と少しやってみたのが、「穴埋め短歌」という遊び。用意された短歌の「穴」に何が入るかを想像してみる遊びです。
本に載っていた例の一つがこれ。
( )の( )には夏という商品があるらしいと聞いた
本来なら57577のリズムに沿わなければいけないんですが、思いつかなかったらちょっとズルしようというルールで作ったのが下にあるもの。
(ツルヤ)の(商品棚)には夏という商品があるらしいと聞いた
(天国)の(カプセルトイ)には夏という商品があるらしいと聞いた
ツルヤは長野県にあるスーパーの名前です。
私が作ったのは二つ目なのですが、「カプセルトイ」の小ささと「夏」の大きい入道雲のイメージのアンバランスさが好きでした。でも、「天国」ってちょっと安直すぎたかも。もうちょっと捻っても面白そう?
一つ目は、書くことが「苦手」だと思っている友達が作ったもの。リゾート地の軽井沢にあるツルヤで「夏」が売っていたらどういう人が買うのだろうか…とどこか考えてしまいそうです。
ただ、やってみて思ったのが、「読み手」って重要だなということ。
今回は私が友達にとっての「読み手」でしたが、もともと「苦手意識」があるからか自分の作品を「こんなの…」とはずがしがっていました。
もし授業中に先生がこのアクティビティをするなら、先生が何かを否定することは絶対あってはいけないのでしょう。
「苦手意識」と「ケンエツくん」
読み手が何かを否定しない。それって、多分相当難しいです。
特に、作品の最初の読み手は必ず自分なので、自分が自分の作品を否定しないことって、ほとんど不可能なんじゃないかって思います。
6章にこんな文章がありました。
目の前の文章を「書いていた」自分と、それを「読んでいる」自分も、決して同一ではありません。書き手としてのあなたが書いた文章を、読み手としてのあなたが読む。そこでは二人の他者が出会っているのです。
苦手意識があればあるほど、「読み手の自分」は「書き手の自分」に厳しくなってい口でしょう。そんな中で、「作品の出来不出来を気にせずにただ楽しく」文章に触れ合うためにはどうすればいいのか。
著者は、自分の中の自己検閲の声の主を「ケンエツくん」と、「他の誰かの感情」に転換することで切り離す方法を紹介しています。他にも人それぞれに合った方法はあるのでしょうが、「ケンエツくん」を一回取り除いて、自分の書いたものを一個の作品として楽しく消化することの大切さを感じました。
「めっちゃ褒めて!」
書くことに苦手意識を持っている人の「ケンエツくん」に限らず、書くことが得意だと感じている人の「ケンエツくん」も、一回切り離してみなきゃ。
個人的に感じていることですが、ただ自分のために文章を書いているとき、自分で自分お表現技法や文章の構成、話の流れを分析したり、ケンエツしたりしてしまいます。「フック」「文法」「起承転結」「陳腐」などとラベリングした自分の文章は、その時点で「直さなくてはいけないもの」となり、「下手」な文章になってしまいます。
だからこそ、まずは一回自分の文章を検閲しないで、いいところを見つけること。
その後でケンエツくんに来てもらえれば、自分の書いた文章と、その文章を書いた自分を好きなままで、もっと好きな文章を作り出せるので。
著者の方が言うように、今度誰かに「めっちゃ褒めて!」って言いながら文章を渡してみようかな。
何しろ、「自分という読者」は辛口な評論家になりがちです。
よほど経験を積まないと、自分の文章の欠点ばかりが目について、良いところは見つけられません。
そんな時に他の人の手を借りて自分の文章の良さに気づくことは、あなたが書き手として成長する大事なステップでもあります。
全体を通して
もともと、ここ数年「読み書き」について考える機会が多くなっていました。実際に著者の方と「書くこと」について話したこともあり、本に書かれていたことがすべて驚くべき内容だったかと言われると、そうではありません。
私にとって、この本は、ここ数年で感じていたことが言語化された本なのかも。
もちろん何十年も国語の教員をされている方の本なので、その考えの質や深さは全くの別物です。エクササイズなども知らなかったですし、ところどころで出る引用からも著者の方の知識の深さが垣間見えました。
でも、「書く」ことが得意だと思い込んでいたこどもが、成長するに従ってだんだんと自分と「書く」ことの関係性を考えていく過程で、ふっと思いを寄せたことのある端切れ。
そんな端切れが継ぎ合わさって、一枚の大きな布になって「それでいいんだよ」と出迎えてくれたような。
そんな暖かい印象を受けました。
読めてよかったです。
本を読んで、私が感じたこと
ここからは、本を読んで思い出したことを。
自分の中のモヤモヤを消化するための、雑記です。
この記事でも何回か書いた通り、私は、人より少しだけ「書くこと」が身近にありました。
そして、特に小学生の時は、自分は書くことが得意なんだと思っていました。
ですが、それは本が早く読めて、クラスメイトよりも長い量の文章を書くことに抵抗がなくて、読書感想文で代表に選ばれて…ということだけが理由。人との比較で「得意」と思っていただけです。
今では、取り立てて自分の文章が上手いわけではないことを知っていますし、書くことで何かを訴えてきた人たちにも出会いました。その上で、自分が書くことが好きだとわかり、それ以外に自分の気持ちを残す方法をまだ知らないから、私は文章を書いています。
それでも、授業で文章を書く機会があればあるだけ、人と比較してしまう癖が出てしまいます。
この人の文章に比べて、自分はこういう表現ができている。
この人よりも自分は構成のこういう部分がわかりづらい。
もしくは、友達のブログを見て、
この人のこの表現は私には書けないし思いつけない。
なんでこんなに読みやすい文章になるんだろう。
以前、あまり文を書く印象がなかったクラスメイトの、食に関するエッセイを読んだ時、その表現の綺麗さに驚きました。
比喩や擬音、擬人法など、表現として分析しようと思えば分析できるけど、それ以上に心の奥底にふわりと落ちてくるような文章でした。
その文を読んだ時、私はぐるぐるしてました。
私は、いっぱい本を読んでいるから書くことも上手いよね、と小さい時に言われていて。
でも、その文章は私には絶対書けない文章で。
「すごい」
「きれい」
「感動した」
そんな明るい気持ちだけで済めばよかったのですが、
「なんで私にはこの文章が書けないんだ。」
「私も本はいっぱい読んでいるのに。」
「私は何も考えずに文章を書いているのか。」
「私も人を感動させるような文章を書きたいのに。」
そんな後ろ向きな、そのクラスメイトに対しては失礼な感情を抱いていました。なんとも言いようのない、居心地の悪さを勝手に感じました。
そして、「自分はまだ、人と自分を比べるんだ。」と改めて気づきました。
その場でも「すごいね」などとおざなりな言葉で済ませてしまい、今でも後悔しています。今も、時々その人のブログを勝手にのぞいて文章を読んでいますが、染み入る文章を読むたびに、好きな言い回しを見つけるたびに、その時のはっとした気持ちを思い出します。
人と比べるために文章を書いているわけではないのに、人と無意識に比べてしまって、挙げ句の果てに相手に自分の感じたことを隠して。
そんな自分の汚い部分を、この本を読んでいて改めて思い出しました。
自分のために文章を書きたいです。
それは、こうしたブログの記事でも、そのクラスメイトのような食に関するエッセイでも、もしくは小さい頃に書いていたメアリー・ポピンズのスピンオフ作品でも。
なんでもいいから、自分のために、自分が安心する世界にいるために、文章を書きたい。この記事も、特に後半は自分の感情を整理するための、自分が安心するための文章です。自己満足、閉じた世界、そう言うこともできるけど、それが大切なんです。
そして、欲を言えば、そのうちのいくつかが、他の人の気持ちを動かすようなものであれたら。
それほど嬉しいことはないでしょう。
どうしても、作品には「読み手」が必須です。それは自分だけかもしれないし、他の人も含めるのかもしれない。
読み手が誰だとしても、誰かの気持ちを動かせるような、誰かの気持ちに染み入るような、そんな文章を書きたい。
そんなことを感じました。
自分の中のしこりを今ここで言葉にして、ちょっとまだ書き足りないような、もっと書きたいことがあるような、そんな気持ちです。
私は、こうして、書くことを通して、自分を形づくっていきます。
書くことが自分をつくる手段ではない人もいっぱいいるでしょう。
私も、書くことだけではなく、写真やダンスなど、いくつかの手段で自分を見るレンズと周りを見るレンズを構築しています。
でも、「書くこと」が自分をつくる手段の選択肢としてそこに存在していることを、時々思い出してほしいな、と思います。
『君の物語が君らしく 自分をつくるライティング入門』、ぜひ興味を持った方は手にとってみてください!
最後までお読みくださりありがとうございました。それでは、現実にそろそろ目を向けて勉強を進めていきます。テストが終わったら、また色々と「自分の物語」を書いていきたいです!