こんにちは。ISAKのBuddyプログラムでバディーとなった上級生の方とこの前お話しさせていただきました!不安は尽きませんが、だんだんとISAKへの進学が現実味を帯びてきています。ISAKに行くまでの期間も、ISAKに行った後の期間も、精一杯楽しんでいきたいです。
目次
- 浅間縄文ミュージアムとは?
- 一階の展示:土器の説明や、模型など
- 一階の展示室:国の重要文化財
- 二階の展示:浅間山の雄大さ、恐れにも似た畏怖の念を抱くかも…
- 最後に…:実は土器は浅間の土で作られてない⁈
浅間縄文ミュージアムとは?
今回は、随分前に行った浅間縄文ミュージアム、と言う博物館の感想を書いていきます。
御代田町の公共文化施設「エコールみよた」のなかに併設されています。
御代田町は軽井沢の隣の町で、軽井沢と佐久に挟まれている町としてベッドタウン的役割も果たしているようです。
中山道について書いた記事にも出てきているので、ぜひご覧ください。
今(24/06/2021)は長野県民のみを受け入れているので、お越しの際はぜひホームページをご確認ください。
この博物館はこぢんまりとはしていますが、展示物を多く揃えていて、その地域の縄文文化、自然などについてを詳しく解説しています。
一階の展示:土器の説明や、模型など
最初に入ると、縄文時代の土器や生活様式についての展示があります。
驚いたのですが、縄文時代、人口は東日本に集中し、西日本にはあまりいなかったのだそうです。
縄文時代の中期、関東に9万人、中部に7万人の人が暮らしていたと考えられていますが、逆に近畿・中国・四国は5千人以下だったとか。動植物など食料資源の偏りに起因すると書かれていました。
弥生時代になると、人口が逆転し、西日本の比重が増すようになるとも書かれています。多分稲作に適した気候や、稲作が入ってきた場所のつながりなどが関係あるのではないでしょうか。
それにしても、食べるもので住まいが変わる、と言うのは
今の日本にはもうない概念だと思うので、当たり前のことかもしれませんが少し驚きました。
そして、縄文土器も色々と変化している、というのは初めて知る知識だったと思います。いろいろな種類のものがあると走っていても、それが時代によって変化したものだとは知りませんでした。
- 前期・初頭 -塚田式、中道式
- 前期・中葉 -神ノ木式
- 中期・中葉 -焼町
- 後期・前葉 -堀之内式
これらの〇〇式などの土器は、すべて浅間山麓の遺跡から発掘されたものだそうですが、
それに対応する土器が図の下に多く並べられていて、一つ一つ確認しながら勉強することができます。
どういった用途のものだったのか、いつ頃作られたのか、そういったことも詳しく展示説明に書いてあるので、見応えはたっぷりです。
あまり広い範囲にそういった遺跡が分布しているわけではなく、「この遺跡はこのミュージアムから数分で〜」とかのものもあったため、御代田町付近、と言うか
浅間山麓は縄文時代住みやすいものだったんだろうな、と思います。
尖底土器群も多く展示されていますたが、欠けないで見つかる土器ってこんなに多いんだ…と少し驚きました。石器も展示されているのですが、剥片を利用する石器って黒曜石のイメージがとても強かったんです。
でも、展示の中にはもちろん黒曜石のこともありましたが、他にもチャートや安山岩など、いろいろな素材が使われているものもあったため、とても面白かったです。
この博物館でも名前が出てきた「和田峠」いつかいってみたいです。黒曜石が昔から取れた場所です。
昔からキラキラ光るものが好きなので(笑)、黒曜石って憧れるんですよね。
縄文人のアクセサリー、ピアスなどの装飾品も、壁一面にすらっと展示されています。そちらも、教科書・資料集で見るようなものなので見ごたえたっぷりでした。
一階の展示室:国の重要文化財
また、展示室の奥に進むと、幾十もの展示品が。
これはすべて国の重文指定品で、長野県宝になっているものもあります。
「158品を長野県宝に指定する」といった趣旨の長野県宝指定書も置いてあり、すごい数だな…と改めて実感しました。
展示はすべてガラスのショーケースに入っていて、見るぶんには見ごたえたっぷりなのですが写真は撮りにくい…。博物館に行って毎回思うことですが、ガラスのケースに入っていると撮っている自分や、周りの人が見えてしまうので撮りにくいんですよね。
写真はズブの素人がスマホで撮っているだけのものなので、雰囲気だけでもわかってもらえれば本望です!
ちなみにここに展示されているものは「焼町土器」と言う種類のもので、
長野県塩尻市焼町遺跡で発掘されたものと同じような型のため焼町土器と呼ばれるのだとか。
中期のもので、浅間山麓から群馬県、果ては新潟県の方などにかけて分布します。
突起、曲線、点など様々な文様がつけられていましたが、いくつかの土器を見比べてもこれといった法則のようなものは見つからず…。
文様に共通点はあるのですが、組み合わせ方の法則があったのなら知りたいと思いました。
煮炊きの際の焦げが内面にある、といった土器もあり、実際に昔の人々はこれを作って生活していたことを改めて理解しました。
私が知っているのは美術の授業でやった火炎型土器ですが、それとは全然違う形ではあるものの色や雰囲気がやっぱり同じで、ぱっと見では違いがつけられないんですよね。
今ある装飾された食器やその他のものも、何千年か後になったら
「これはこの地域のもので〜、これは輸入されて〜、これはこういった種類の流れを汲んでいて〜」
とか話す人が出てくるのかな、と思うと面白かったです。
他にも土偶や石皿、石棒などいろいろなものが展示されていましたが、見ごたえはたっぷりでした。
二階の展示:浅間山の雄大さ、恐れにも似た畏怖の念を抱くかも…
二階に行くと、浅間山麓の自然についての展示があります。
浅間山噴火での火山弾の直撃を耐え、浅間南麓で現代まで生き抜いたカラマツの展示が、入ってすぐにあります。
カラマツの幹の一部なのですが、確かに大きな焦げの跡が入っていました。
この時の噴火では群馬県側に火山噴出物が流れ込み、
嬬恋村の一部の鎌原村では477名が死亡、93名が生き残ったのみだったそうです。
耕地も9割以上が無くなり、馬も8割以上が流死。
「天明の生死を分けた15段」と言う言葉の通り、村の高台にある観音堂の、上から15段目の場所まで土石流がなだれ込み、その少し下の方で登りきれず土石流に飲み込まれた二人の女性の遺体も見つかっています。
この観音堂、今は15段までしか残っていません。
それに、この土石雪崩に飲み込まれて埋もれた幻の寺と言われる、延命寺についての解説もありました。昭和55年に発掘調査が開始され、多くの仏具類や仏像、陶磁器なども発見された他痛ましい犠牲者も発見されたと書いてありました。
この天明の大噴火の時に湧き出た溶岩が固まったのが今の「鬼押し出し」と言われる観光スポットで、ここにもいったことがあります。
鬼押し出しには博物館も併設されているため噴火の詳細についてはすでに知っていることではありましたが、それでもやっぱり文章や写真に見入ってしまいます。
晴れていれば、この展示がある二階に大きな窓が設置されていて、そこから浅間山を見上げることもできます。それに、草花の展示や噴出された軽石の展示などもありました。
(一部ぼやかしています)
ちなみに、私が通う予定のISAKは、もしも大規模噴火が起こったら山などの遮るものがないため、火山噴出物が来る危険性はとても高いです。それに、生徒・教員・スタッフ全員を避難させられるほどの移動手段も用意されていない(はずです)ため、もし人が死ぬほどの大規模噴火が起こったらそこで終わりだと思います。
最後に…:実は土器は浅間の土で作られてない⁈
ということで、浅間縄文ミュージアム内の感想を書いてきました。
博物館内で展示されていることではなくて、館長さんが教えてくださったことで、とても面白いことがあったので書いていきます!
実は、この御代田の浅間縄文ミュージアムで展示されている土器、
浅間山麓で作られたものではないのだそうです。
発掘されたのは、もちろん浅間山麓なのですが、それらは塩尻など、他の地域から御代田に運び込まれたものなのだそうです。
浅間山麓の地域は、火山灰などを含むため粘性が高くありません。
よって、御代田近郊で取れる土は土器を作るには不向きなのだとか。
この博物館、割と土器を作成したり、勾玉を作ったり、そういったイベントも開いているのですが、
土器を作るのは思っているよりも難しく、浅間山麓で取れる土を使ってやるのはまずできないと思う、
ともおっしゃっていました。
土を御代田に運び込んで土器を作ったのか、作った土器を御代田に運び込んだのか。
どちらかはわかりませんが、それでも聞いていてとても面白かったです。
それほど浅間山麓は住みやすい場所だったんでしょうか。確かに都会に比べれば今でも自然は多いですし、今はリゾート地として名が知れている地域(軽井沢)ではありますが、昔は自然の多さや涼しさなどは関係なかったはず…。今ですら熊が出る、そうった生態系の話なのかも知れません。
何が要因となってそこまで人気なのか、とても気になりました!
縁があってこういうお話も聞けて、嬉しかったです!
最後までお読みくださりありがとうございました。今はコロナウイルス予防のため長野県民のみの受け入れ、イベントの中止、となっていますが、それでも土器が好きな人や縄文時代の歴史に興味がある人などはぜひいって見ると面白いと思います!