うぐいすの音

17歳の女子が運営しているブログ。本のレビューなどしていきます。

太宰治『きりぎりす』あらすじと感想

 こんにちは。課題が全然終わらないので、周りの人にそろそろ手助けを頼まなければいけない時期になってきています…。なんか、ここまでできない課題って初めてです(笑)どうにかできるまで頑張っていきたい!

 

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 今日は、また太宰治の作品の感想を書いていこうと思います。

これまでに、短編集『女生徒』の感想として

表題作の『女生徒』の感想、

 

chirpspring.hatenablog.com

 

『燈籠』『皮膚と心』の感想、

 

chirpspring.hatenablog.com

 

を書いてきました。

 

 今回感想を書くのは、『きりぎりす』の1作にします。

(すみません、本当は2作の予定だったのですが、ちょっと力尽きたので一作で…)

 

 

短編集紹介、著者紹介

 まずは、あらすじ紹介と著者紹介から。これは、『燈籠』などの感想を書いた記事からコピペしてきます!

ーーーーー

 それでは、まずは短編集の内容紹介と、著者紹介へ。

短編集は7編仕立てとなっています。以下の通りの順番です。

  1. 女生徒
  2. 燈籠
  3. 皮膚と心
  4. きりぎりす
  5. 千代女
  6. おさん
  7. 饗応夫人

どれも、女性を主人公とした作品で、悩みや日常のことについてを描いています。

 前回紹介した『女生徒』という作品は、14歳の女生徒が朝起きてから夜寝るまでに考えたことを告白体で書いた作品でした。

 

 著者は、太宰治です。太宰はもう有名ですね。

教科書題材でも『走れメロス』は定番ですし、『人間失格』という作品も題名のパワーがすごいので印象に残っている人も多いのではないでしょうか。

 青森県出身の作家で、戦前から戦後ぐらいにかけて活動しています。自殺未遂や薬物中毒などかなり破天荒というか、クセの強い人生を送ってきています。

ーーーーー

 

 

『きりぎりす』のあらすじ

 

 さて、それでは『きりぎりす』のあらすじなどを書いていきたいと思います。この作品も、主人公の「私」が一人語りで語っているものです。

 

 この話もなかなか強烈で、別れ話となっています。

お別れいたします。あなたは、嘘ばかりついていました

という文章から、どう嘘をついていたのかを女視点で描いています。

 

主張としては、

私は売れない絵描きだったあなたの方が好き

お金が入ってくるようになった今、汚いお心になったよう

人の悪口も言うようになった

他人の声のように聞こえる

あなたの方が社会的には正しいのかもだけど、自分のどこが間違っているのかわからない

別れさせてもらう

といった感じのことです。

 

 詳しく書くと、女性の夫は売れない貧乏画家だったんです。女は、見合いをきっかけに彼の絵に惹かれ、家族の反対を押し切って駆け落ちにも似た形で結婚します。

暮らしは貧しくても、女は貧乏であることを楽しもうとし、夫を生涯支えるつもりでした。

 

 ですが、次第に夫の絵は売れるようになります。大家との繋がりもでき、名前も知れ渡っていく。そのうちに、夫はお世話になっている人の悪口を言ったり、金に汚くなったり、批判を偉そうに言い…

 そう言ったことを近くで見ている女にとって、それは我慢できないことでした。世間での生き方としては夫の方が正しいのかもしれないとはわかっていても、自分の考えが間違っているとも思えない。

 ラジオで聞いた夫の声が別人のように聞こえ、さっさと寝てしまおうと寝床に入ると、縁の下で虫が鳴いています。それを聞くと、

なんだか私の背骨の中で小さなキリギリスが鳴いているような気がするのでした。この小さい、幽かな声を一生忘れずに、背骨にしまって生きていこうと思いました。

と思うようにすらなった、と言う話です。

 

 

 

読んでいる間の感想

 

 この話、読んでいて俗世間の汚さと言うか、理不尽さをあらわにさせられたような気がしました。今まで貧乏だったからこそ、一気に有名になったり富を得たりするとなんらかの亀裂が入るようになります。

 それが、この家では悪い方向に出たのでしょう。

夫は妻を省みなくなり、時々物を買ってご機嫌とり。すぐに悪口を言い、誰かに媚びて、横柄な態度も取れば浮気めいたこともして…。

奥さんが我慢できなくなることも、予想はつきます。

 

 きっと、女の方は「孤高の芸術家」だったり、「清廉な芸術家」だったりの姿を夫に求めていたのではないでしょうか。そして、その夫を支えるのは生涯自分である、と。

 それなのに、予想を裏切って夫が有名になり出し、しかも俗的になってきた。

 

 自分の予想していた像からも、自分が求めている像からも、夫がはみ出してしまったこと。そして、そのはみ出し方を自分ではいいと思えないこと。

 女の言っていることは、決して間違っていないと思います。それどころか、理想論ではあると思います。お金持ちになることを否定されるのはどこかおかしいと思いますが、その他の媚びるような行動だったり誰かを批判するような行動だったりは、しないのならしない方が好ましいはずです。

だって、お金のない時の食事ほど楽しくて、おいしいのですもの。

そう言った考え方をする人だからこそ、「純粋、高潔」と言った考えとは程遠くなってしまった夫とは一緒にいられなくなったのかもしれません。

 

 

 この女の方の意見には、そうだよな、と同意するんです。

確かに、自分の予想とあまりにも違うと追いつけなくなるかもしれません。夫の行動がいいものとは言えないし、アウトなこともあるはずです。つつましく暮らすことが最善と信じているなら、夫の行き方は受け入れ難いでしょう。

 

 でも、それで終わらせないのがこの話です。

考えてみてください。自分が、しがない絵描きで、誰にも注目されなくなっていることを。そしてわずか数年の間で、あれよあれよと言う間に富と名誉を手に入れて、遊ぶお金も贅沢するお金もできたことを。

そうした時に、それまでの暮らし方を崩さず、生き方を変えず、人間関係をあまり変えず…と言ったことができる人は、そこまで多くないと思うんです。

 

「身の程に合った」と言う言葉は、用法によっては侮蔑的な発言にもなり得ます。だけど、この『きりぎりす』に関しては、夫に「身の程に合った」生活を求めたくなります。

それでも、「身の程に合った」を自分で自覚するのはとても難しいことだと思います。不遇の時代を過ごしてから一気に注目されると、その変化に戸惑いもするだろうし、欲がもっと出てきます。

 欲を出せるのに自ら欲のない生活を送るのは、一回大きな失敗でもしていない限りとても難しいはずです。私も、絶対に思い上がると思います。

 

 誰かの悪口を言ったり、誰かにへつらったり、そう言ったことも推奨はされませんが、やってしまう人は多くいるでしょう。

 世間で上手く生きていくためには、夫のやり方は特に酷くはないのかもしれないです。今でも変わらない、社会の汚い一面というか…そう言ったところがうまく描かれているので、自分たちもこれと同じようなことをやりそう、やってそう、と言った感想も出てきます。

 女の方にのみ肩入れするのが難しく、男の方も擁護したくなる作品でした。

「こう!」と言った感想が出てきにく、「こちらも正しいけど、こちらも間違ってはいない…」と言った、しがらみを描いている作品かな〜、と。

どこか寂しいイメージのあるきりぎりすを、背骨の中に飼っているってすごい表現だな、とも思います。今の自分を形容する言葉を見つけたくて、キリギリスという言葉を思いついたのか。それとも、感傷に浸りたいからそう言った言葉を使ったのか。

この女性に、夢見がちなところがないとは思えないんです。ドラマチックなあらすじを自分で描きたくなるところがないとは思いません。だから、そう言ったものも合わさって善悪つけ難い作品となっています。

 

 

 最後までお読みくださりありがとうございます。時間がないので、少し手抜き記事になりました。後日修正等もしようかと思っています。続きの記事も、ぜひ見ていってください。よろしくお願いします!

あの日を、6年後から振り返って【イギリスに行った8月24日】

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」

 

 こんにちは。課題も進まないし、ボランティアでもやることがあるし、他にも色々とやらなければだし…。という忙しい状況。なのに、なぜか楽しくなってくる私はワーカホリック気質だろうな〜と思う今日この頃です。

 

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 さて、今日は、はてなブログインターネット文学賞、「記憶に残っている、あの日」をお題に書いていこうと思います。

皆さん、記憶に残っている日ってどれくらいありますか?

 

 記憶に残っている日…

私が体験していない(覚えていない)もので、意識している日は6つあります。

  • 1月17日
  • 3月11日
  • 8月6日
  • 8月9日
  • 8月15日
  • 9月1日

の6つです。

阪神淡路大震災東日本大震災、広島被爆、長崎被爆終戦記念日関東大震災

私が生まれてから起こったのは東日本大震災だけで、震災が起こった時私はちょうど愛媛にある祖母の家に行っていたため、経験はしていません。

 ですが、この6つの日は意識していたいです。もちろん他にも覚えておくべき日は多くあると思いますが、中学生になってから毎年黙祷をしている日です。

 

 

 ですが、今回書くのはこの6つについてではありません。

 

私が上げたいのは、8月24日

2015年の8月24日なので、そろそろ6年経ちます。

 

 私は、小学校4年生の夏から1年間イギリスで過ごしたことがあります。家族4人で移り住み、父親が通うことになった大学寮に住んでいました。

 その時に、イギリスへと出発した日がこの8月24日なんです。

 

24日の夜10時ごろ出発だった上に一回アブダビを経由したため、イギリスに実際についたのは25日でした。

 

 だから、24日はただ飛行機に乗った日、といっても間違いでは有りません。

2015年の夏休みは、ずっと友達の家に遊びにいっていて、24日の午後にみんなでトランクを引きずって家を出ました。

そこから電車を乗り継いで成田空港へ。

 

 実は、この時自由研究を完成させていなくて、どうしても完成させたかったので9時ごろまでずっとカフェで自由研究を進めていました。

これは、結局イギリスから国際郵便で日本に送ったと思います。

実際は提出しなくてもいいものでしたが、それでもやりたいといって知人に協力してもらったため、やめるわけには行かず…。

 

 今考えても、私本当に準備不足だったな…と。

空港で自由研究をするような計画性の無さからは、6年経った今、少しは脱出できたと思います。

 

飛行機に乗ったことはあるはずなのですが、それは記憶にないような小さい頃。

外国に行くのも初めてですし、これから1年間日本には戻らないという事実。

ドキドキでしたし、不安と緊張ももちろん有りました。

飛行機が少し揺れるだけでびっくりしたし、全然寝られなくて座席についている液晶でずっとゲームをしたり映画を見たのを覚えています。

 

 

 イギリスに行って1年間過ごす中で、英語力ももちろん伸びましたし、多様性を垣間見れました。

そこでの経験から興味を持って、今人権関係のボランティアもしていますし、

何より私の進学先であるISAKには、イギリスに行っていなかったら興味も持っていなかったはずです。

 

 その期間中にイギリス以外の国にも観光で行ったし、色々な国から来た人たちと友達になりました。数人とはまだ連絡を取っています。

 

 とても貴重な経験で、小4〜小5の体験したことを忘れないで済む年に行けたことも幸運でした。今でも思い出すことは多く、色々な視点から忘れられない一年だな、と感じます。

 

今の自分に影響している一年の、一番最初の始まりの日。

それが、8月の24日でした。

 

 今まで、8月24日が来たら「あ、◯年前の今日イギリス行ったね」「これくらいの時間に飛行機乗ったよね」という話が出ていました。

 

 それも、今年からは無くなります。

私がISAKという高校に進学することで、8月中旬から入寮し、寮生活となるからです。

イギリス留学は、家族にとっても転機だったと思いますし、それぞれ色々な思い出があります。

その始まりの日を、これからは4人で迎えにくくなることが、少し新鮮です。

自分が本当に高校に行くんだな、ということと家族で過ごす時間の短さに、改めて気づきました。

 

 日本をたった8月24日だけではなく、イギリスについた8月25日、大学寮に入って母の作ったカレーを食べた9月13日、他にも思い出に残る日付はいっぱいあります。

 

これから、家族水入らずで過ごす時間というのは少なくなっていきます。

でもこれまでの思い出をおろそかにせず、

そしてこれからもそういった思い出に残る日を作っていけたら嬉しいです。

 

 最後までお読みくださりありがとうございました。皆さんは、思い出に残っている日付などありますか?そういったものを増やして毎日を記念日にできたら、1年365日楽しくなるかな、と思います。本当に「毎日が記念日」にできたら、楽しそうです!

太宰治『燈籠』『皮膚と心』あらすじ、感想

 こんにちは。この頃雷がよくなっているので、外に出にくいです…。長野に来て雷は本当に落ちるんだということを学んだので、気をつけなきゃです!

 この頃、やらなければいけない課題の意味がわからなくて…。これまでもわからないことは多かったのですが、今回の課題はほんっとうにわからない!30%も理解できてないです。もう何をどうしていいやら状態ですが、できることはやりながら頑張っていきます(笑)

 

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 さて、先日『太宰治文学館 女生徒』の表題作、『女生徒』の感想を書いてきました。

 

chirpspring.hatenablog.com

 

今回は、その短編集の中から前半の方の作品を取り出して感想を少しずつ書いていきます。

 

 

目次

 

 

内容紹介、著者紹介

 

 それでは、まずは短編集の内容紹介と、著者紹介へ。

短編集は7編仕立てとなっています。以下の通りの順番です。

  1. 女生徒
  2. 燈籠
  3. 皮膚と心
  4. きりぎりす
  5. 千代女
  6. おさん
  7. 饗応夫人

どれも、女性を主人公とした作品で、悩みや日常のことについてを描いています。

 前回紹介した『女生徒』という作品は、14歳の女生徒が朝起きてから夜寝るまでに考えたことを告白体で書いた作品でした。

 

 著者は、太宰治です。太宰はもう有名ですね。

教科書題材でも『走れメロス』は定番ですし、『人間失格』という作品も題名のパワーがすごいので印象に残っている人も多いのではないでしょうか。

 青森県出身の作家で、戦前から戦後ぐらいにかけて活動しています。自殺未遂や薬物中毒などかなり破天荒というか、クセの強い人生を送ってきています。

 

 

 

『燈籠』あらすじ、登場人物など

 

 それでは、今回感想を描くのは『燈籠』と『皮膚と心』にしようと思っています。

 

まずは『燈籠』の感想から。

 

『燈籠』では、24歳の独身女性「さき子」が主人公です。経済的には貧しい家庭で、親が店を営んでいます

さき子は、自分が惚れている19歳の学生「水野さん」のために盗みをします。

その盗みは、遊びに行った時に水野さんを恥ずかしがらせないため、という理由からのものです。

 

そして、さき子は牢屋に入りたくないからと弁解し、泣きながら笑い出し、最終的に精神患者とみなされました。

さき子は親に連れて帰られ、さき子の親の営む店も数日閉店。

周りを近所の人が興味がてらにうろついています。最後、さき子は今までとは違う美しさを見つけ、そこで話が閉じられます。

 

 

『燈籠』感想:驚きと考察

 『女生徒』を読んだ時、私は「太宰治ってこんな柔らかい文章も書けるんだ!」とすごい驚きました。

人間失格』のイメージが強く、『女生徒』も悲観的なところはありましたが、『人間失格』に比べると全然気持ち悪くもないし共感できるところもより大奥あるんです。

 

 そうやって驚いた後、この『燈籠』を読んで、「あ、良かった。太宰だ」と思いました。

人間失格』よりも強烈ではないし、終始柔らかいというかつかみどころのないような印象です。弱々しいところもありながら飄々としている、という言い方が一番合っているのかもしれません。

 

 だけど、やっぱり物語を通してまとわりつく遣る瀬無さとかもどかしさ、

そして何と言っても直感的な気持ち悪さが、人間失格』と重なりました

必死に自分を擁護して、何かにすがりつこうとしている姿が悲観的に書かれています。しかも、一人称の文章なため、さらに思っていることとやっていることのつながりが見えて気持ち悪くなります。

*この場合の「気持ち悪い」は褒め言葉なので、誤解のないようお願いします!

 

(そこまで太宰作品を多く読んでいるわけではなく、

それに加えて『人間失格』は初めてしっかりと考察した思い出深い本なので、

比べる対象が全て『人間失格』になっているかも…。)

 

 さき子は、出自が確かではありません。

さき子の母親と父親は駆け落ちをしていますが、さき子の顔は母親側にも父親側にも似ておらず、誰が父親かわからないのです。

さき子はそれに対して、

私は、父の実の子です。誰がなんと言おうと、私は、それを信じております。

 といっています。

 

かといって家族仲がとてもいいわけでもなく、

父も母も、弱い人です。実の子の私にさえ、何かと遠慮をいたします。

という風に、少しちぐはぐしている親子のようにも見えました。

 

それでも、さき子は24年間ずっと親孝行をしてきました。

 

私は、これは「親孝行をしないと家族でいられないかも」といったような強迫観念があるのでは、と思っています。

さき子の両親がそういっているわけではなく、

さき子自身が「自分は実の子だ」と強くいうことでそれを刷り込ませ、その関係を壊さないようにしているのでは、と思いました。

「何かと遠慮を」というぐらいですから、あまり結束が強くないというか、脆い関係なのかもしれません。

 

 自分の立ち位置が見えないというのは不安なことですから、そうやって家族の絆を深めたかったのでは、というのが私の考えです。

 

 また、さき子は惚れやすいたちです。

おまわりさんに惚れたこともあれば、水野さんには眼科で一目惚れしています。さらに、夢中になったから万引きをしています。

これも、「水野さんとの関係」を維持するために、道を踏み外したのかもしれません。

 

「家族との関係」にも気を配り、「水野さんとの関係」にも気を配り、大変だったろうと思います。

その大変さが、文章の気持ち悪さにもつながっているのかもしれません。

 

 

この話は、最後の文章が救いです。

そこで、やっと目の前のことが見えている感じがします。

今までは親との関係から他人に指をさされて、さっきまでは水野さんのお友達の目を気にしていた。

だけど、最後の文でやっと他の人たちを眼中から外して、今いる人たちを意識したような気がしました。

 

 今までずっと悲観的だったのに、最後に急に覚醒しているので、「良かった…」という満足感よりも「あ、そっか、うん、おめでとう」みたいな肩透かし感が少しあったかも。でも、それもまた面白いです。

 

 ただ、「希望、救い」そんな言葉を思い浮かべても、やっていることとその時の状況を二度読みして整理すると、余計に悲しくなるかも

結局、お金がなかったり人から指をさされたりするとこうなるんだな…という感想も出てきます。

 

初読のときは救いの文章だな、と思いましたが、

2回目に読むとちょっとその気持ちも薄れました。

この文を希望ととるか、それとも惨めで哀れととるかは人によって違ってくると思います。

 

 

気持ち悪さ、

弱々しさ、

寂しさ、

遣る瀬無さ、

そういったものがまとまって、そして最後にいい方にも悪い方にも取れるラストがある。

こんな作品もあるんだ…という感じです。

そして、太宰作品は最低二度読みしたほうがいいということも改めて感じた作品でした。

 

 

 

『皮膚と心』あらすじと登場人物

 

 それでは、3作目の『皮膚と心』に行きましょう。

 

『皮膚と心』は、「私」の左胸の下に小豆に似た吹き出物が見つかったところから始まる話です。

「私」とその夫は、夫婦ともに容姿が良いわけではありません。

また、夫は離婚歴があります。

 

「私」にとって、容姿が良くなくても肌が綺麗なことは絶対に守りたいことでした。

どんな拷問をされても耐えるけど、シラミやうじを肌にかけられたりするのは絶対に耐えられない。

吹き出物が全身に回ってしまった私は、もう人ではない。

 

そんな、行きすぎた自己嫌悪を抱えています。

 

 夫は、そんな妻を見て病院に連れて行ってくれます。初めて言った「電車では行きたくない」というわがままも、快く聞いてくれました。

 

皮膚科で待っている間、「私」は病院が性病関係も取り扱っていたことから、夫に病気をうつされたのでは、と勘ぐりすらしてしまいます。

そして、その勘ぐりをしていることの意味に気づいた「私」は結局自分も愚かだと悟り、夫はそれに対して「むりがねえよ。わかるさ」と慰めます。

 

 

『皮膚と心』感想:太宰作品でいい男が出てきたんだが…

 

この作品、短編集『女生徒』の中で一番好きです。

少し気持ち悪いところもあるかもしれないけど、それを大きく上回る暖かさで、「太宰ってこんな作品書けるの?!」という二度目の衝撃が。

 

 太宰の作品で、思い込みが激しい人物が出てくるのはもう慣れました

今までの2作品もそうだったし、『人間失格』にも『走れメロス』にもそのきらいが出ていると思います。

 

 だから、この作品で一番驚いたのは「男」の側です。

主人公である「私」に付き添う主人が、今までの太宰作品の男性とは違っていました。

どちらかというと、『斜陽』とか『燈籠』、またはこの短編集に入っている『饗応夫人』など、

太宰作品では女性視点の作品だと「駄目な男」が出てきていると思っていました。

 

 

 この『皮膚と心』では、予想を裏切って男の側がとても妻思いなのです。

様子のおかしい妻を心配し、コンプレックスをかばい、わがままを聞いて金を払い、妻の自己嫌悪を取り除こうとする。

 「私」は夫のことを「一層おどおどしている」「自信のない」と言っていますが、そんな言葉とは似つかないような優しい夫の印象でした。

 

 『燈籠』は、ずっと暗いまま話が進んで、最後少しの救いが天から降ってくる、感じでした。

でも、『皮膚と心』は

一人称の「私」が暗くて自己嫌悪が強すぎても、夫の言葉で時々浮上するので、

そこまで暗くなりすぎなかったんだと思います。

 

少し行きすぎている自己嫌悪ですが、皮膚に限らずそう行った劣等感には覚えがある人も多いと思います。

そうやって、その時の気持ちが何と無く想像つくからこそ、夫の行動がより救いとなって降ってくる気がしました。

 

 

 28歳で「おばあちゃん」という部分は、今現代には通用しないというか、通用してもらいたくない感覚です。

ただ、この人は自分の肌の美しさとかそういったものに、容姿に自信がない分、プライドがあったんだろうなと思います。

 

夫の温かい行動は、果たして夫が妻を想うが故にやっていることなのか、

前妻とのやり取りの中で学んだことなのか。

それによっても、話の捉え方は少しずつ変わってくる気がします。

 

 ただ、前妻が関係あろうとなかろうと

「私」は夫を慕っているし、夫も「私」を大切にしている。

いい関係が築けるといいね、と希望が残る作品です。最後の文章も、青空の下で仲良く寄り添う二人が想像できます。

 

この話に関しては、まず「いい男が出てきてる…!」という衝撃が大きく、そこから肯定的に読むようになっています。

だから、もう少し悲観的に読もうとしたら読めるのかもしれません。

だけど、とりあえずは深読みしすぎずに、額面通りの言葉を受け取りたいです!

 

 

まとめ:次の太宰の感想も読んでみてください!

 ということで、『燈籠』と『皮膚と心』の感想を書いてきました。

『皮膚と心』は何と無く分かりますが、『燈籠』は少し題名の意味が…。

話の中で出てきているのは灯篭ではなくランプです。どう行った関連性があるのでしょう。そこを考えながら読むのもいいかもしれません。

 

それから、何回でも言いますが

女性の繊細な心理描写がとても細かい!

「この人こんなのも書けるの?!」という感想につきます。

太宰ってすごい…。文豪ってすごい…。

もっと早くこのすごさを知っておきたかったですが、遅すぎるということはないはずです。

 

短編集なら読みやすいですし、楽しいのでもっと読んでいきたいです!

女性独白調の作品は、全14編あるそうです。私は7作品しかまだ読んでいないので、見つけたいです。

 

この短編集は7作品あり、そのうちの3作品を今まで紹介しました。残りの4作品も紹介していくので、読んでみてください!

 最後までお読みくださりありがとうございました。ぜひ、興味を持った方は読んでいってください!

『復興の書店』読了!より本が好きになって、より本が大切になる話。

 こんにちは。

昨日、自分が前にいた中学校に行って学校司書の先生に色々とお話を聞いてきました。私が小学生の時にいた学校図書館はあまりいい環境とは言えない部分もあったので、長野県に来てからは小学校も中学校も私の知っているよりは充実していてとても嬉しかったです。

司書の先生にお話を聞ける機会なんて今のうちしかないと思っているので、とても貴重なお話でした。しかも、知り合いの方にも色々と図書館関係の話を教えてもらっているので、人脈って本当に大切だな〜と思いました。

 

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目次

 

 

本のあらすじ、著者紹介

 

 今回は、本つながりで『復興の書店』という本の感想を書いていきます。

まずは、本のあらすじと著者紹介から。

 『復興の書店』は2012年に小学館から出版されました。

 

 本は、2011年3月11日に起こった東日本大震災と、その影響を受けた書店たちについて。

東日本大震災で被災した書店は岩手、宮城、福島で391店。この3県の書店数の約9割に当たります。

 

ネットの普及などに連れて本の需要が薄くなってきた時代。

そこで、震災をきっかけに書店関係者がどう動いたのか。

そういったことを描いています。

 

 著者は稲泉連さん。ノンフィクション作家の方で、1979年生まれです。

『僕が学校を辞めると言った日』で文芸春愁読者賞を受賞しています。

 

 

震災の中で改めて感じる、紙の本の大切さ

 

 縁起でもないですが、もしもまた大きな津波を伴う大地震が起きたら。

ネットも重くて使えない状況で、震災の情報しか流していないテレビとともに、避難所でずっと過ごすような状況になったら。

 

 何も手に取るものがない時に、皆さんは何をしますか?

 

「活字離れ」という言葉があるほど、今本を読む人は減ってきています。

だから、震災直後に被災した書店を開こうと頑張った人たちも、

「果たして需要はあるのか、本屋を開店させるよりももっと必要なものがあるのではないか」

と最初は思っていました。

 

 

 だけど、被災地の人々は書店側が想定していたよりも本に飢えていました。

ただの情報ではなくて、地図や雑誌、震災情報誌、それだけではなくパズル誌や実用書、そのほかの本でも、いろいろな種類の本が必要とされていました。

 

本というのは趣味の一部で、何か大変なことがあったときに生活の中で最初に切られるのは趣味の部分だから、本屋を再開しても本は売れないだろうって。

でも、それが逆だったんです。

普通は食料や水だと思うじゃないですか。お客さんがお店に集まってくる様子を見て、自分の仕事ってこういうものだったんだ、と発見した思いでした。

 

これは、宮城県石巻市の書店・金港堂に勤める方の、震災後に営業が再開された時の心境です。

 

 実際は、本は生活に絶対必要なわけじゃないんですよね。

それがなくても生きていけます。音楽や、嗜好品も同じです。不必要なものだけど、それでも生きる時に必要なもの。

矛盾した言葉しか使えない語彙力なのが悲しいですが、本はそういうものだと思っています。

 社会生活を送る上で必要なもの、ということになるのでしょうか。

 

 地震の被災者がメインのため、読んでいて悲しくなる場面ももちろんあります。津波の時の心境を語っているパートなどもありましたし、津波が来た時にどう動いたかを書いているところもありました。

 

 水に浸かった本、流された店舗、瓦礫が侵入した店、流通が滞るおかげで全然届かない新刊、、、

読んでいて、辛い描写はもちろんあります。

私ですら辛くなったんだから、その本を毎日見て整えていた書店員さんが水に浸かった本を見た時の心境は、察することすらできません。

 

本って、水に浸かると膨らんで棚から出なくなるんですね。そんなことも初めて知りました。知らなくていい知識だったけど、知ることができてよかったです。

知っておかなければいけないことだとも思いました。

 

 私は、今長野県に住んでいるため、津波が来ることはまずありません。でも、将来沿岸沿いに住むことがあるかもしれないし、災害は地震だけとは限りません。そうなった時に、自分の好きなものがどういう風になるのかを、少しでも知っておいたほうがいいはずです。

 

 

人はパンのみにて生きるにあらず

 

 悲しくなるところもある上で、読んでいてとても嬉しくなる本でした。

私は、そこまで多くのジャンルや数を読んでいるわけではないですが、本を読んでいる方だとは思います。

 

 だから、いくつかの本で「本屋さんの利益は下がってきている」「本の必要性は薄れている」と言った文章を見ると悲しくなるし、本が好きな人が少しでも増えるといいな、と思っています。

 

 そんな状況でこの本をよむと、なんというか、嬉しくなりました。

いつもは軽視される時もあるかもしれないけど、本はやっぱり大切で、必要なものなんですね。

 

 

衣食住が欠けると生きていくことが難しくなります。絶対に必要なのは、食料や水であって本ではないかもしれません。

 

でも、

不安を和らげるため、

辛い時に楽しくなる時間を作るため、

一人で過ごす時間を作るため、

子供の笑顔を見るため、

色々な要素から本は必要でした。

 

 本は生きるためには必要なくても、生活していく時にないと辛いもなんでしょう。

本書の中には、こんな言葉が出てきます。

人はパンのみにて生きるにあらず

この言葉どおりなはずです。

 

少なくとも本が好きな人が読んだら、嬉しくなる。そんな本だと思います。

 

 

本屋さんで働く人たち

 

 自分たちの家だって被害にあって辛い状況のはずなのに、本屋を開くのはとても大変なことだと思います。

 

教育はとても大切という信念のもと、教科書だけは何がなんでも4月までに間に合わせなければいけないと必死で教科書を揃える姿。

本を配送するための流通が滞っているから、自分で本を取りに行く姿。

阪神大震災のことを思い出して、すぐに店を開店させたジュンク堂

 

本屋さんに働いている人は、本が好きで、本のことを大事に思っているんだな、とかんじました。

 

もちろん、全ての書店員さんが本を好きでいなければいけない、ということではありません。

本屋さんを始めたくても始められなかった人たちもいるでしょうし、諦めざるを得なかった人もいるはずです。

 

この本に書かれているのは一部の本屋であって、

全部の本屋ではないということはわかっていなければいけないけど、

それでも本を好きな人たちがこんなにいる、と感じられるのはとれもうれしいです。

 

 

 

まとめ:読後の感想

 

 この本を読んで、より本が好きになりました。

「本なんて〜」「別に読みたくもないし、、」そんな言葉を聞くこともあります。

 

でも、それは自分のいる世界の話のことで、世界を広げれば本が好きな人もいっぱいいるし、本を必要としている人もいっぱいいるはずです。

 

 本に関わる仕事がしたいというわけではありません。

だけど、本に関わっていたい、と思いました。

 

本を読むことを仕事にしてしまうと、ただただ楽しく本を読む間に、何らかの意義を無意識につけてしまいそうです。

だから、本を読むことを仕事にしたくはないです。

 

 でも、本に関わること。ISAKで何らかのプロジェクトをやるのでも、バイトでも、何でも本に関わっていきたいです。

 

 より本が好きになって、より本が大切になる。そんな話でした。

電子書籍が普及してきている今日この頃。私も、i文庫とかで本を読むことが少しずつ出てきています。

 

だけど、久しぶりに紙の本を買って、読みたいなと思います。

書店があるってとても幸運なことだと申し、本がある環境に小さい時においてくれた親にも改めて感謝です!

 

 最後までお読みくださりありがとうございました。読んでいてとても楽しい本でしたし、ところどころ感動もので涙腺が…。本は無くならないと思うし、なくなって欲しくもないです。この方の本、他にも読んでみたいと思いました。

お寿司食べたい!

今週のお題「寿司」

 

こんにちは。今週は中身のある一週間を送ろうと思っていましたが、今日で一応平日は折り返しです!グダグダにならずに頑張っていきたいです。

 

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 今回は、はてなブログのお題から「寿司」について書いていきます!

 

 寿司といえば、前から考えていた疑問が…。

やっぱり、日本の食事というと海外の方と話すときはお寿司が話題に上ることが多いんですね。そういう時に、日本語の普通の発音で寿司というか、それとも海外の方に合わせてスゥシィみたいな感じでいうか、地味に悩んでいたことがあります。

 寿司だけではなく他のものでもそうなんですが、周りに合わせた発音にするか日本語の発音にするかは正解がないと思うので、迷うことも(笑)

 とりあえず、今は適当に2パターンとも使っています。

 

 

 さてさて、皆さんは、お寿司をどんな時に食べますか?

お祝い事があった時、仕事が忙しくてパック寿司にしたい時、ちょっとした外食、行事の時のちらし寿司など。いろいろなシチュエーションで食べると思います。

 少し前までは、お寿司屋さんはもっと敷居が高くて、なんらかのお祝い事の時にしか行かなかったそう。江戸前寿司が食べられるお店というのも、一昔前は少なかったと聞いています。

 

 この頃は、スシローとかかっぱ寿司とかの回るお寿司も増えて、スーパーのパック寿司も美味しいし、ちょっとしたお出かけ感覚でお寿司を食べることも多くなっているのではないでしょうか。

 そういった外食でお寿司を食べることもあれば、我が家では時々手巻き寿司を作ったりもしていました。

この頃はあまりやりませんが、東京にいた時とかは何回か手巻き寿司を作っていました。お刺身を作って、それとすし飯とのりで作るので、子供からしたら自分で作る特別感も味わえるしとても楽しかったのを覚えています。

 

 この前は、海鮮丼も食べました。それは自分で作ったやつですが、やっぱり海のものって食べると幸せになります…。特にお刺身だとそうなります!

 

 お刺身は、イギリスに住んでいる時も時々食べていましたし、家族全員好きなのでやっぱり食べると楽しいです。

イギリス在住時は、母親が地域のお魚屋さんで新鮮なやつを買って、一匹丸ごとさばいたりしていました。やり方を知っていれば誰でもできるといっていましたが、少なくとも今の私は一匹丸ごとさばくなんてできません…。

その技術で、かなり助かったので、私もいつかはさばけるようになりたいです!

 

 

 生魚を食べるというのは抵抗のある人も特に海外だと多いですし、食べられない、という人もいます。だから、8月からインターナショナルスクールにいったら今よりは回線を食べる機会も少なくなりそうです。

必要不可欠なものではないけど、やっぱり全然食べないとちょっと悲しくなってくるものなんですよね、お寿司って。そういう、娯楽的要素って「不必要な必要」と言われるって聞いたことがあります。そんな感じかな〜と。

 

私は柿の葉寿司とか、押し寿司を食べたことがないのですごく食べてみたいんです!

江戸前寿司が今の形になったのは歴史的に見れば最近だし、今は特に個性的なネタも多くできてきています。変わっていくお寿司を目の前で見られるのもなんだか嬉しいですし、今までのお寿司も食べてみたいな〜と思います。足で踏んでお寿司を作るってあまり考えたことがないので、そういったお寿司も食べてみたい。

もちろんお寿司だけじゃなくて、いろいろなものを食べてみたいし、いろいろなことを経験してみたいです!

 

 

 今回は、時間もあまりないので超短く切ってここまでで!食べることが好きなんで、食べ物のことを考えていると楽しいという気の抜けた時間を過ごせます(笑)

 最後までお読みくださりありがとうございました。こんな短いというか気の抜けた記事を書いたのはいつぶりだろう…(笑)。お題をくれるシステムって改めてありがたいです!

太宰治『女生徒』読みました!感想

 こんにちは。昨日は久しぶりに書道を習いに行きました。仮名文字に初めて挑戦したのですが、あんなに線を描くのが難しいとは…。利き手じゃない(私は左利きです)こともあると思うのですが、普通に線を描くのが難しいです。文字はほとんど書かず線を描く練習をしていたのですが、とても難しかったです。でも何回もやれば次第にかけるようになる(はず)なので、頑張っていきたいです!

 

 

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目次

 

 

『女生徒』あらすじ説明、著者説明

 

 今日は、太宰治の作品を読んだ感想を書いていこうと思います。

以前図書館で太宰の本を探し、その時に気になったのが『女生徒』でした。

今回読んだのは短編集で、

  1. 女生徒
  2. 燈籠
  3. 皮膚と心
  4. きりぎりす
  5. 千代女
  6. おさん
  7. 饗応夫人

の7作(収録の順番は変えていません)が入っていました。

 

 今回は、とりあえず表題作の『女生徒』の感想を書いていこうと思います。

 

amzn.to

 この話の主人公は、思春期に入りかけの少女です。日常を、自分のなかの思考を繰り広げながら過ごしている様子を一人称で描いています。

 

まずは朝から始まり、学校へ行って、家で過ごして、夜に寝るまでの生活を描き、

その間に思ったことをつらつらと述べている状態です。

中には、「大人になることへの困惑」「理想の家族、人のあり方」など、かなり少し重いことも書いています。

 

 女生徒の気持ちは色々と変わりますが、それは表には出ておらず、すべて女生徒のみが知っている感情です。

 

太宰治は、とても有名な文豪ですね。

走れメロス』や『人間失格』などを書き、戦前から戦後にかけて小説を発表してきました。

青森県出身で、彼自身は薬物中毒だったり自殺未遂を繰り返してきました。かなり人間としてもクセの強い方です。

 

 

初読の感想:太宰ってすごすぎ…

 

この本を読んで一番最初に思ったのが、

太宰ってこんな本も書けるの?!

ということ。

 

 今まで読んできた本は、どちらかというと暗めのものも多かったですし、何より私の中で太宰は『人間失格』のイメージが強すぎるものですから、読んでいてとても驚きました。

 ここまで、細やかでリアルな思春期の女子の心情が表せるって、かなりイメージが変わりました。太宰さんすごいですね…。

 

 女生徒の気持ちは、ぐるぐると移り変わっていきます。めまぐるしいほどにです。

朝、布団を持ち上げる時に「よいしょ」と言う。これだけで、憂鬱になっています。

 

私は、いままで、自分が、 よいしょなんて、げびた言葉を言いだす女だとは、思ってなかった。

よいしょ、なんて、おばあさんの掛声みたいで、いやらしい。

どうして、こんな掛声を発したのだろう。

私のからだの中に、どこかに、婆さんが一ついるようで、気持が悪い。

 

これは、ある程度の人にとっては何回か感じた経験のあることなのではないでしょうか。

私も「よっこらしょ」とか「よいしょ」とかいうことはありますし、それが悪いとは思ってないまでも、言うと気を取られます。

 

こういった、勢いをつける言葉(?)にはどこか老いたイメージがついています。

特にそれを嫌がる人や、まだ若くありたいと思う人にとっては、こう言う言葉を使うこと自体が許せないのでしょうか。

 

 あまり許せないと思ったことがないので、この部分は同調はできませんでしたが、

こういった形で日常にあることを描いているため、

「あ〜、そういうことある」「こういう人いるんだよな…」といったような感想がポンポン出てきます。

 

 女生徒の一人語りではあるものの、女生徒の周りで一緒に登下校している同級生になったような気分でした。

 女生徒自身になった気がしなかったのは、多分環境があまりにも違うことと、使っている言葉が時々鋭いと言うか、感傷的になりすぎて攻撃的にも思えたからかな、と思います。

感情の起伏も激しく、かなり悲観的なところもあればちょっと前向きになる時もあって、感傷的でした。

 

 

女生徒はどんな人なの?

 

 彼女は、自分がどれだけ情けない存在か、不完全か。何回も考えて、誰かに献身的に尽くすことに喜びを見出そうとしている気がします。

読んでいて、「弱くて自分に自信のない母親」に対して少しでも楽にしてあげようと、読みたくもない本を読みながら「いい娘」を演じようとしているその姿は、どこか危ういものすら感じさせると思いました。

 

電車内で道理の通らない(当時なら通ったのかも?)ことをされても、悲しみをあらわにせず他のことで自分を慰めている姿。

厚い化粧をしている女に対して同族嫌悪を感じている姿。

 

 主人公は、

自分のことをよくわかっていて、

周りにいる人を見て「こうなりたい」「こうはなりたくない」と考えているにも関わらず、

それがうまくいかなくてモヤモヤしているんだと感じます。

 

自分の心をここまで言葉にして分析できているのはすごいことだと思います。

真面目なのか、成熟しているのか。

 

でも、それが原因なのか、周りを見すぎていて自分勝手になることを忘れているような気もします。

 

なんて言えばいいんでしょうか、うまく言えないです。

少なくとも、母親との会話の後半部分では、

自分が希望を持たなければとわかっていても、他の原因に甘えて自立しようとしない

ような姿も見えた気がします。

 

これからは、お母さんと二人だけの生活に満足し、いつもお母さんの気持ちになってあげて、昔の話をしたり、お父さんの話をしたり、一日でも良い、お母さん中心の日を作れるようにしたい。そうして、立派に生き甲斐を感じたい。

 

 この文章からも、生きがいを母親の幸せで感じられる、といったことを読み取れます。自分の成長のためにはどうすればいいのか、母親の成長のためには何をすればいいのか。もう少し違う結論があっても良さそうですが…

 

でも、そうやって客観的に視野を広くして考えることは、私が本を読んでいるように違う話として受け取らない限り難しいと思います。

目の前のことに精一杯になって、他の解決策なんて思いつきません。

 

 そこが子供らしいと言えばそうなのですが、子供が母親のために行動するのが果たして本当に良いことなのか。それは、双方の自立の機会を奪うことなんじゃないのか。そう思いました。

 

 

最後に:これはどういった作品なのでしょうか

 

『女生徒』は、

「女生徒が自分を物語の主人公にして、時には悲劇のヒロイン、時には青春を送る女学生として心の中で自分を見ている作品」

なのでしょうか。

 

 自分を物語の主人公におく。それは悪いことではありません。

誰しもが、自分中心の世界にいると思いますし、そうあるべきでもあります。それを心の外には出していないんだから、悪いことはありません。

 

 誰にも起こりえることですし、『女生徒』と同じようなことを思っている人はたくさんいると思います。

とりとめもないことに頭を巡らせている時の、繊細な感情があらわになるとこうなるんだとも思いました。

 

 一つ一つの表現が特徴的で、共感できるところもあれば少し置いてけぼりにされたところもある。

そういった、めまぐるしい普通の日常を感じられる作品です。

 

 

まとめると、

太宰の文体や表現技術に驚かされ、

少女の起伏の激しい思春期特有の気持ちに共感して戸惑います

 

読んでいて楽しかったですし、ただただ太宰の多彩さに驚かされました…

私も別に想像力が乏しいわけではないと思いたいですが、それでも生や死、美などとりとめもない膨大な情報量を、朝起きてから夜寝るまでの普通の1日に考えているのには圧倒されます。

 

名言も多く、読んでいったら共感する言葉や胸を打たれる言葉、気づかされる言葉などが入っているはずです!

 

 学生の方や、悩みのある方に読んでもらえたら、共感するところも多いでしょうし、大人の方が読んでも楽しめると思います。

 それでは、また今度短編集に収録されている他の6作の感想も書いていこうと思います。是非読んでいってください!

 

 最後までお読みくださりありがとうございました。久しぶりに純文系を読みましたが、やっぱり楽しいですね!

日本語に漢字を使わない? 〜『銃・病原菌・鉄』を読んで〜

 こんにちは。

今日は、昨日まで書いてきた『銃・病原菌・鉄』の中から気になった部分について書いていきます。

是非読んでいってください!

 

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目次

 

 

最初に:問題のある中国発祥の文字

 

 まず、ジャレド・ダイアモンドさんの『銃・病原菌・鉄』より、気になった箇所をいくつか引用します。

 

日本人が、効率の良いアルファベットやカナ文字でなく、書くのがたいへんな漢字を優先して使うのも、漢字の社会的ステータスが高いからである。

『銃・病原菌・鉄 下』P60 L6~

 

たとえば、中国文化の意向は、日本や朝鮮半島では依然として大きく、日本は、日本語の話し言葉を表すには問題のある中国発祥の文字の使用をいまだに止めようとしていない。

朝鮮半島において、扱いにくい中国伝来の文字に変わって、独自の素晴らしいハングル文字が使われるようになったのは、最近の話である。

『銃・病原菌・鉄 下』P188 L8~

 

 他にも何箇所か日本について書いているところがありましたが、とりあえず特にこの記事で使いたい部分は上の二つです。

 

この記事では、

  1. 漢字廃止論や漢字制限論がどういったものかをまとめ
  2. GHQや他の人々が提唱してきた漢字廃止論や漢字制限論、そしてアルファベットの使用についての歴史を調べ、
  3. その後で自分の意見を書いていこうと思います。

出来るだけ前半では私の意見が反映されないような書き方をしようと思っています。

ネットで調べただけのこととなるので、根拠があやふやなものもあると思います。間違いがあったら、ご指摘くださるとありがたいです!

 

 

漢字廃止論とは?漢字を使っている国は?

 

 それではまず、漢字廃止論漢字制限論がどんなものなのか。

日本語の表記は、一般的に漢字、ひらがな、カタカナがあります。どの言葉も、中国から伝わってきた漢字から成り立つものです。

今は漢字が日常的に使われているのは中国日本のみですが、ベトナム朝鮮半島も昔は漢字を使っていました。

 

 漢字廃止論というのは、漢字表記を排除しようという考え方のことです。

幕末明治から提唱されるようになり、戦後にも強く提唱されました。

近年は下火になっていますが、まだ廃止論、もしくは制限論を提唱している人もいます。

 

 自国の独自文化を重んじて、中国から来た文化を排除しようという働きや、活版印刷での実用性に欠けるという側面から、漢字廃止はいくつかの国で受け入れられてきました。

明治時代が始まってから、漢字を排してひらがなを国字にしようという動きや、布告書を仮名で発布すべきという動きもありました。

 

 だいたい、漢字を廃止した後は仮名文字を使った方がいいという考えのようです。他にも、ローマ字を使うべきという考えや、独自の文字を作ろうという考えがありました。

 

 

漢字廃止論の歴史と、その内容

 

 1948年に、GHQ

日本語は漢字が多いために覚えるのが難しく、

識字率が上がりにくいために民主化を遅らせている

という意見が出てきました。

 

その時、日本語をローマ字表記にする計画も起こされましたが、正確な識字率の調査によると漢字の読み書きができないものは2.1%に止まったため、ローマ字化は撤回されました。

 

漢字廃止論の意見としては、

  • 漢字は社会階層の知識格差を招く
  • 子供が知識を得る障害となる
  • 同音異義語が増える
  • 習得が困難となる

などの意見があるようです。

 

 ローマ字化という意見の利点としては、外国人が読みやすかったり、海外に日本語を普及させやすいことが挙げられます。

 

 かな派としては、カナモジカイという団体も作られ、今は財団法人としてではなく任意団体として活動を行なっています。

www.kanamozi.org

 

 今の漢字廃止論は、主に障害学、識字研究に基づいて行われていて、議論の本筋は食にものとは変わってきているようです。

 

 この漢字廃止論に影響され、中国では簡体字が進められ、韓国では15世紀に作られたハングルのみを知っている世代も増えています。

ベトナムでは20世紀まで公用文で漢文を用いましたが、独立時に漢字は廃止され、今では伝統行事の場で主に漢字が用いられるようになっています。

 

 漢字廃止論が盛んだったのは60年代ごろまで。70年代に登場したワープロが出てきたことから、活字化にも問題がなくなり、廃止論は下火になっていきます。

 

 

 日本では、江戸時代の頃から寺子屋として主に商人に丁稚奉公に入る子供たちに字を教えていました。そこで教えられていた字は、必要があって教えられていたものです。

だから、勉強を趣味で学べるほどの財力のない子供たちにとっては、漢文を読んだりといったような、必要性のないことは学んでいませんでした。

 それでも、寺子屋のおかげで識字率は高かったと思いますし、ある程度の教養も寺子屋や、学問所に通っていればついたと思います。

 

 そういった識字率の高さが、少なくともGHQによる日本語のローマ字化から逃れる要因となったのでしょうか。

 

 

私の考え:

 とりあえずは、ここから私の意見も書いていきます。ところどころ親との話し合いで思ったことなども混ぜていきます。

 

 まず、私は漢字廃止論には反対です。

 

『銃・病原菌・鉄』内で、

「日本語を表すのに問題のある漢字表記を止めようとしない」とか、

「韓国独自のハングルは素晴らしい」とか書かれているのを見て、いい気持ちはしませんでした。

 

 私たちが日常的に使っている漢字を使いもせずに、効率の面のみから「アルファベットや仮名文字を使うべき」なんて言われても…。

 

そもそも、日本語には50音しか有りませんピンインもないし、同音異義語も多いです。

同音異義語が多いのは漢字を使ってきたから〜と考えることもできると思いますが、

それを言い出したらもう日本語自体の使用について考えなければいけなくなります。

 

 その状態で、仮名文字化、もしくはローマ字化すれば語弊も多くなるでしょう。知らない単語だった時に想像するのも難しくなります。

轟音と感じで書けば、なんとなくイメージがつきますが、「go-on」とか「ごうおん」とかだとわかりにくいですよね。

 

 そして、日本人が漢字に慣れていること。

もちろん、漢字を覚えにくい、と思う人は多いと思います。でも、「書くのは難しくても読める」という漢字も多いのではないでしょうか。

 

 私は、漢字学習についてしっかり学んだことがないし、特に漢字を覚えることが苦痛ではなかったので、ここについては無神経なことを言っているのかもしれません。

 

 確かに、30文字もないアルファベットは効率的です。仮名文字だって二種類使ったとしても100文字覚えるだけ。それに比べて、常用漢字は2136字。数だけだと確かに規格外ですよね…。

 効率の面だけを気にするなら、漢字は廃止するべきなのかもしれません。

中国語が世界に広がらず英語が世界に広がったのには、少なからず使いやすさ・覚えやすさがあると思います。中国語の文法は英語のそれと似ているところもありますが、日本語の文法は異なることもあり、覚えにくい言語のはずです。

 

 ただ、効率を気にして漢字を廃止することは、文化の断絶を意味すると思います(家族と話している時に出てきた言葉です)。

 

 例えば、イギリスで今使われている英語は、8世紀ごろから使われていた古英語(少しアルファベットとかが変わってきます)の発展形です。現代英語に近い形の言葉は、16世紀からしか使われていません。

つまり、その前に書かれた文章は、専用の学習を積まなければ読むことができません。

原文でそのまま読めるのは、シェイクスピアくらいまで、ということです。

 

 韓国では、1446年に発明されたハングルで書かれたことなら読めるはずです(想像ですが)。でも、それ以前に書かれた漢字を使っている文章は、特に若年層は読めない人が多くなっていると聞きました。

 

 日本では、漢字、仮名文字を使った文章がほとんどのため、いつの時代でも少し注釈がつけば読むことができます。

意味がわからずとも、文字だけで万葉集の和歌を詠むことだってできるでしょうし、崩された文字でなければ源氏物語を原文で読むことだって可能です。

私も小学生の時に、「いずれの御時にか女御更衣あまた〜」と暗唱しようと頑張っていました。

 

 気づいてみると、1000年前の文章を少し単語に注釈がつくだけで読めるようになるって、かなりすごいことなんじゃないでしょうか。

15歳になる前から(高校受験とかの練習で)、単語の注釈のみで1000年前に書かれた古文を読むんですよ?

 

 仮名文字だけを使うということは、それまでの漢字で書かれてきた文章を理解しようという機会すら作らないということです。

廃止されてからの数年、十数年はいいかも知れません。

でも、漢字が廃止されて50年、100年後、私たちが手に取れる文学や文章は、その100年の間で書かれてきたものだけです。

 

 漢字が使われてからの1500年ほどの歴史を自ら学ぶ機会、自分の手で書かれたものをそのまま読み解く機会、

そういったことを、意識的にねじ伏せるということです。

 

 「古文なんかあったって特に読まないし…」という人、いっぱいいるのではないでしょうか。

古文を日常的に読むのは、確かに限られた人だけでしょう。

でも、だからと言って自分たちの周りの人、家族、友達が古文を読みたくないとは限りません。

ミステリにハマる人もいれば、ファンタジーにハマる人もいる。

クラシックにハマる人もいれば、JPOPにハマる人もいる。

その延長線上で、「古文にハマる人」がいたって何もおかしくありません。

 

 子供の頃に青い鳥文庫の「あさきゆめみし」が好きだった人が、大人になって原文で読もうとするかも知れません。ハリポタを原文で読もうとチャレンジする人がいるんだから、古文で読もうとする人だって当然いるはずです。

 

 そうやって原文を読もうとする時にある壁が、漢字廃止(さらにはローマ字化の場合も!)の時にはより一段と高くなります。

もしもGHQの取り組みによって日本の言葉がローマ字化していたら、今使われている言葉は全部ローマ字だったんでしょうね。

ローマ字で生まれてきた世代が、自ら漢字や仮名を学んで文学を読もうとするでしょうか?

 

植民地を征服して、それまでにあった言語を全て英語にとっかえて、そこから新たな歴史を作っていったのが英語。

皮肉な言い方なのかも知れませんが、そう取ることもできます。

 

 今までの文化を取っ払うというと、大げさに聞こえるかも知れません。

でも、日本語をローマ字化した後の200年後は、500年後は、もう漢字もかなも昔のもので、当時書かれた文学なんて読もうという気すら起こらないかもしれない。

 

 

まとめ:結論と、注意事項!

 

 私が今大好きな図書館戦争とか、はやみねかおるとか、そういったものを読めたのはそれが本棚にあったからです。

そこで使われていた文字がなくなった時、本は選別されていきます。とりあえずあったから読むということがなくなり、その中から新しい文字に変わる時に翻訳版が出された本、選別された後の本が残っていきます。

 

 もちろん、今私たちが知っている「曽根崎心中」といった名前も、選別された後のものかもしれません。

でも、触れられる文学の量が少なくなるのは悲しいし、

今私が心を動かされた文字を継承していけないのも悲しいです。

 

 だから、もしも漢字廃止論がまた旋風を巻き起こすようなことがあったら、私は反対派になるはずです。

 

 ハングル文字は確かに素晴らしいかもしれない。でも、それも文化の断絶という面を持っています。

 

>扱いにくい中国発祥の文字

確かに文字数も多いし画数も多いですが、今までの日本の文化を継承して、伝えていくための手段です。

 

>ローマ字や仮名文字の方が素晴らしい

自分がいつも使っている英字とか、それと同じ表音文字の仮名文字の方が英語圏の人には使いやすそうに見えると思います。効率を重視するのみなら、確かに効率に関してはローマ字、仮名文字の方が素晴らしいかもしれません。

 

>日本語の話し言葉を表すには問題がある

私は、少なくとも漢字で書かれた言葉の方が読みやすいし、全部平仮名の話し言葉を本では読みたくないです。そもそも日本語の言葉の多くが中国の漢字を使って作られてきたものなんです。

 

 

 ここでいっておきたいことが一つ!!

『銃・病原菌・鉄』は、上下巻で70ページを越す長さのある考察本です。

しかも、世界中の歴史などをカバーしています。

 

 別に、日本の漢字廃止論について色々と調べたわけでもないでしょうし、本当に長い作品の中の数行です。

 

 私は、著者のジャレド・ダイアモンドさんの主張を否定したいわけではなく、その主張に関わってくる文章のほんの一部に反対しています。 

本自体は読んでいてとても楽しかったですし、なるほどと思うことも多くありました。

 

だから、このブログで書いているのは

『銃・病原菌・鉄』の一部分から興味を持ったことに対して自分で調べて、思ったことをメインにしたものです。

 

漢字廃止論という考え方があったこと自体、私は知りませんでした。

だから、知ることができてとても面白かったですし嬉しかったです。

 

 これに関する本も読んだことがなかったので、読んでみたい。何回も書いていますが、こういった考察本を読むと読みたい本が増えすぎて困ります…。それが楽しいんですが、時間がもっと欲しいです!

 

 最後までお読みくださりありがとうございました。今回は、自分が考えたことについて書いてみました。初めて知ることなども多かったので、とても面白かったです。改めて、今使っている漢字のありがたさを確認できた気もします!