うぐいすの音

17歳の女子が運営しているブログ。本のレビューなどしていきます。

住みたい場所:田舎?都会?

今週のお題「住みたい場所」

 

こんにちは。土日は疲れが出やすいのか、いろいろなことに手を出そうとしつつ結局は寝ちゃいます…。いくらでも寝られます。

今、「寝られる」だったか「寝れる」だったかわからなくなったので親に聞いてみたところ、「寝る」の場合は「寝られる」だけど、「練る」の場合は「練れる」らしいです。「寝る」は「寝ない」、「練る」は「練らない」なので、確かに違うんですね…。日本語って大変です奥深いです。

 

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 さて、今回は、はてなブログのお題ということで「住みたい場所」を考えていきます!

 

 

目次

 

 

都会と田舎どっちがいい?

 

 まずは、都会と田舎のどちらがいいかという至極難しい問題について。

私が今まで経験したことがあるのは、

です。

 

 私の認識では、住んでいた場所は東京の中でも都会ではない場所でしたが、今思うと東京都の23区内なので都会です。徒歩10分圏内にコンビニが4軒とか5軒あるんですから、今住んでいる場所に比べればかなりの都会です。

 

 そして、イギリスで住んでいたのは、デボン州の州都であるエクセターだったので、特に田舎ということはありませんでした。街に出ればなんでも揃うし、電車も通るので観光がしやすいです。

ちなみに、私の住んでいた場所ではバスを移動にはよく使っていました。電車は少なくとも30分以上かかるところとか、ちゃんとした観光やお出かけの時に使うことが多かったです。

ただ、大学寮が丘の上というか、町からは外れたところだったので東京に住んでいた時よりは不便になりました。

 

 今住んでいるのは、長野県の片田舎です。

栄えているところが近くにいくつかあるため、ど田舎というわけではないですし、人口も一応減ってはいない、という感じの場所です。

ただ、図書館、スーパー、百均程度なら自転車で頑張れば行けるけど、隣の町に行くには車がないといけないし、大抵外に出るときは町内でも車です。駅までは3キロ以上あるので、電車は使いません。

 

 

 ということで、私は都会、普通の街、田舎の3つを経験していることになります。

そこで出した結論は、「住めば都」ということです。

結局、住んでいればいいところも出てくるし悪いところも出てきます。

 東京では色々な場所によくいけたし、友達ともよく遊べましたが、家は小さかったです。

 それに比べ、長野では自分で図書館に行くのも大変だし、BOOK-OFFにもいけない(!)ですが家は広いです。

 

 

 どこを取るかを重視することで、評価は変わってきます。

 

 それでも、やっぱり若いうちは都会に行きたくなります。理由としては、物欲を鎮めるためですかね。BOOK-OFFを土曜日の午後に3店巡るのは、東京もしくは都会にいないと難しいです。

 それに、今はジャニーズだったりハリポタだったり色々はまっているので、そういったイベントごとも全て東京や都会中心で行われます。

ボランティア活動をする時も、オフ会やイベントなどに参加しづらくなります。

 

だから、今住みたい場所は、国内だと東京です!もしくは日常的に東京に行ける場所。

この前読んだ「ツバキ文具店」という話は、鎌倉の商店街での話でしたが、ああいうところもいいだろうな〜と思います。

 

chirpspring.hatenablog.com

 

ただ、将来リモートで働ける環境を整えたり、職を見つけたりすれば、田舎に住むのも悪くないかな、と思います。

私が今住んでいるところはとてもいいところですし、ゆっくりゆったりできます。周りの目を気にせずカーテンを開けて、日光が差し込む中で読書できるのは嬉しいです!

 

 

 

国内?海外?正直決めらんない…

 そして、国内か国外か。

正直、治安が良くて災害がない場所がいい…。

ただ、どちらもというのは難しいですよね。治安がいい日本は災害が多いですし、地震が少なそうな場所でも治安は…というところはとても多いです。

 

 イギリスに住んでいてとても楽しかったですし、スペインに旅行に行ったときはブドウのあまりの安さに驚愕し、毎日ブドウを食べていました。

だから、ヨーロッパはやっぱり憧れです。スカンディナビア半島の国には、住んでみたいな、と思います。治安も特別悪いという話は聞きませんし、旅行に行ったことのある人の話や、留学していた人の話を聞いていてもとても面白いです。

ヨーロッパで住むならスカンディナビア半島に行きたいな…。

 

 旅行したい国はどこかと聞かれたら、「ヴァチカン市国とかに行きたい!」というのですが、旅行したい国と住みたい国は違いますしね…。治安はやっぱり心配です。

 

 四季が無いと物足りない気もしますし、お米が食べられないところもちょっと…。結局、今の所は日本に住んでいたいです。

親の脛をかじることのできる成人までは日本で親しんだ生活を送り、そこから住みたい場所は進路などに応じてどんどん決まってくると思います。

 

 あ!でも、水道水が飲める環境は手放したく無い!

海外に行くと水道水が飲めないところも多いので、日本にいる間に水道水はたらふく飲んでおきます。

長野の水道水は、本当に美味しいですよ。学校の体育館についている水道が一番美味しくて、飲んだときはびっくりしました!

 

 日本で住むなら、芸予諸島付近に住んでみたいです。瀬戸内海の近辺。

親戚が住んでいるので、毎回豪雨のニュースとかが出るたびに心配になります。車を運転できたら、コンビニも百均も行きやすそうなんですけど、子供だとまだ無理ですね。

 牡蠣も柑橘も大好きなので、瀬戸内海大好きです!親戚のいるおかげで旅行に気軽に行けるだけでもありがたい!今度は、ちゃんと観光もしてみたいです。

 

まとめ:脱力記事もいいもんだ

 

 どんな場所に住んでいても、そこにメリットや利点、楽しいところを見つけられるような人間になりたいです。

 

 ということで、完璧脱力記事を書いてきました。たまにはダラダラ徒然なるままに書くのも気が抜けて楽しい。

いつもは、「しっかり書くきたい!本の魅力が伝わるように!私の言いたいことが伝わるように!」と思いながら書いています(結果が出ているか出ていないかは別として)。

 

でも、たまにこうしてお題が出て、他のブロガーさんはどんなこと書いているのかな〜と思ったら、本当に様々なんですよね。

 

「伝えたいことを伝える」といったしっかりとした軸がないまま、徒然なるままに書いていってただただ思いついたことを書く。

そういう記事も、読んでいて面白いですし、地名が書いてあったりしたらちょっと気になります。

そうやって、気を抜いた記事(決して貶めているわけではなくて、いい意味で肩の力を抜いてくれる記事)が書けるようになりたいな〜とも思うし、

「なりたい」って思う時点でもうそれは気のはいった記事な気もするし、

とりあえずは適当に指の動くまま記事を書いてきました。

 

 最後までお読みくださりありがとうございました。こうやって、記事を書く時間が自分の休息となるような記事が書けるのって楽しいな〜と思います。毎回は無理でも、時々増やしていきたいです。

小川糸さん『ツバキ文具店』読了!感想書いていきます!

 こんにちは。毎日家にいるはずなのに、休日になるといつもよりも疲れが出るというか、よく寝てしまうのが面白いです。やっぱり休日っていう意識は消せないんでしょうか…。

 

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 今回は、また読書記録を書いていきます。今見返してみると、読書レビューの記事を8日くらい続けて書いていて、そろそろ他の記事も書いてみたい…。だけど、まとめの段階にまだいっていないものも多いので、これからも割とブクレポが出てくると思います!

 

 

目次

 

 

1. 本のあらすじ、著者紹介

 

 今日書くのは、小川糸さんの『ツバキ文具店』という本のレビューです。こちら、以前から名前は知っていて読みたかったんですが機会がなく、今回やっと読めた、という作品です。

 

 

 2017年の本屋大賞第4位をとっていて、多部未華子さん主演でテレビドラマ化もされています。この本、続編『キラキラ共和国』という作品もあるそうなので、ぜひ今度見つけたら読んでみたいです。

 

 

 あらすじを書いていきます。

舞台は神奈川県の鎌倉で、主人公の雨宮鳩子さんは鎌倉の中で小さな文具店を営んでいます。

先代である祖母の跡を継ぎ、文具店の店主としての仕事の他に代書屋も行なっています。代書屋とは、何らかの事情で手紙を書けない、書きたくない人たちが代筆を頼む際に訪れる場所です。

 

 代書するのは、お悔やみ状から、還暦のお祝いカードまで、様々な内容のものです。代筆といえど文章を用意されるわけではないため、鳩子さん自身が聞いた情報から文章を考え、鳩子さんにしか書けないような文章にもなっています。

 雨宮鳩子さん以外にも、バーバラ婦人や男爵、帆子さんなど、地域の人も多く出てきて、時にはその地域の人たちと交流しながら代書屋としての仕事をこなしていく様子が書かれた一冊となっています。

4つの章に分かれていて、それぞれ春夏秋冬の出来事を書いています。夏から始まって、秋、冬、春の4章です。

 

 

2. 先代との関係:寂寥感と、清涼感の混ざった部分

 

 この話で印象に残った部分がいくつかあります。そのうちの一つが、この物語を通じて描かれる「先代と鳩子の関係」じゃないでしょうか。

先代は数年前に亡くなっていますが、鳩子は先代の死に目には合っていません。

鳩子が幼い頃、祖母である先代はずっと家で文字の練習に縛り付けていたのです。周りの女の子が話していることもわからず、修学旅行でさえ文字の練習をする。そんな環境にずっといれば嫌気がさすのもわかります。

 その通り、鳩子は嫌気がさしてプチヤンキーのようになりました。クラスメイトからすれば、今まであまり話の輪には入ってこなかった地味目の女子が突然ヤンキーっぽくなったのですから、かなりの衝撃だったでしょう…。

 

 それでも、先代が残してくれたものは多かったのです。

鳩子がずっと嫌がっていた、「筆管をまっすぐにたて、肘をあげる」というのは、幼い鳩子にとっては辛いことでも今の鳩子にとっては仕事をする時に大事にしていることの一つです。

 先代の字は実際綺麗で、先代の教え含め、先代のことを鳩子が懐かしんでいる描写は多く出てきます。

 

 そして、先代が晩年に書いた手紙が出てきて鳩子が思ったことも、描写のおかげかとても綺麗だな、と感じました。

字についてはとても厳しかった先代も、弱っている時に書いた文字は弱々しく、自分自身がが大切にしていたことを守りきれていません。

 

その中で、鳩子との関係を悔いて、悩んで、

 

「会えないと頭ではわかっているのに、それでも、もしかすると、と

足音を期待してしまいます。」

 

「でも、今は心から鳩子に謝りたい

どこにいるのかすら、詳しくは教えてもらえません

体が丈夫だったら、日本じゅうを探し回って、謝りたいのに

だからもう、あの子を呪縛から解き放ち、自由にしてあげたい」

 

と見ず知らずのペンフレンドに送っています。

ここの部分は、読んでいて自分も悲しくなったし、仲直りできる可能性を完璧に分かつ「死」の影響の大きさを考えました。

 

私もこの頃時々考えることですが、親と離れて一人暮らし(私の場合は近くの寮で生活ですが)することによって、家族の誰かに何かあっても駆けつけられなかったり、もっと言うと「親の死に目に会えない」だったりすることが起きる可能性はとても高くなります。

だからこそ、笑顔で「いってらっしゃい」と「お帰りなさい」を言えるうちに言っておきたいと思っています。

 

鳩子さんとおばあさんは、それができる関係ではありませんでした。客観的に見て悪いのはおばあさんだと思いますが、それでもどちらにも言い分はあるでしょうし、考え方の違いが生んだものも多かったと思います。おばあさんの手紙を読むと、一概に「おばあさんが悪かった」とは言いにくいです。

私の家族はありがたいことにそう言う環境ではないですが、鳩子さんのような家庭も多くいると思います。

 

部外者が口出しできることではありませんが、もしこう言う形になっている家庭を知っていたら、少しは友達、もしくは知人として何らかの形で助力になれればな、と思いました。

それも悪い結果を生むかもしれないし、何より部外者がでしゃばるなと言われたら何も言えないので自己満足のための考えかもしれませんが。

 

印象的だったのは、鳩子さんの中で祖母に対する考えというか印象が、柔らかく描かれていたことです。

何か、もう全てを悟ったというか、割り切ったような感じでした。

もっと感情が揺さぶられるような書き方で文章が進むかと思えば

それまでと同じように柔らかい文体だったので祖母の手紙との対比が激しく、

鳩子さんもこれまでに色々な苦労をしてきたんだろうな、お若いのにすごいな、と思いました。

 

先代の手紙以外にも共通することなのですが、本にはそれぞれの手紙が全てそれぞれの筆跡で掲載されています。

汚れやにじみなども全て文の通りに再現されています。だから、「〜な筆跡で書いた」と言われた時のイメージがつかみやすいのです。

 

 

3. カレンさんの「汚文字」で学んだこと、助けられたこと

 

 そして、自分が読んでいて助かった部分は、カレンと言う名前の女性が出てくるシーンです。

カレンさんは、還暦を迎える自分の義母にお祝いのメッセージを送りたいのですが、かなりの「汚文字」だそうで…。

 

「字が汚いのは心が汚れているからだ」と言うことを言う義母に、メッセージカードを送るのが辛い、と言うことで代筆屋に足を運んでいます。

 

 私も、字が汚いです。

単純に練習不足だし、ゆっくりも書いていないし、字を書くときの姿勢も悪いし、汚い理由を上げろと言われたら幾つでも挙げられます。

実際、ゆっくり、丁寧に書くことを意識して書いていた時は親にも褒められるくらいには綺麗にかけていました。

 

 一応、くもんの習字教室に5年間以上通っていたんですけどね。全然学習意欲もわかなかったし、お手本を写すのも苦手で、楽しくないままイギリスに行くのをきっかけにやめました。

今思うと、字が汚いってやっぱり嫌だな、と思います。

受験の時などに、親とともに名前を書く欄がいくつかありました。そう言う時に、字が綺麗な両親の下に字が汚い私の署名が並ぶとちょっと悲しいと言うか、落胆する気持ちは味わっています。

 

 カレンさんは、何回も努力しても字が上手くかけない、と言うことです。

鳩子さんも、カレンさんに会って

「字はその人そのもの」「字には、それを書く人の人柄がそのままでる」

といった考えを改めていました。

 

 このエピソードで助かったと言うのは、

「何をやっても字が汚い人はいるんだから、私もいいや」と言うことではありません。

 

 

 まず一つ目に、自分が字を練習しないうちから字が汚くて…とか言うのはやめよう、と思ったことです。

冬から少しだけやっていた、歌詞を書き写す練習。あれもこの頃は時間がなくてやっていませんでしたが、時間なんて作るものです。また再開させます。

何もやらないうちから弱音を吐くなんて格好悪いので、これはもう決定!ブログに書くことで発破をかけようと思います!!

 

chirpspring.hatenablog.com

 

 カレンさんは、鳩子さんも今まで見たことがないほどの汚文字の持ち主でしたが、ペン講座も習字も、子供の頃から何度もやっているのに改善しなくて、「脳の問題かも」と言うほどです。それが原因で学校の先生になりたいと言う夢も諦めています。

 ここまでの人もいて、字が書けないと言う人は本当に色々な理由で悩んでいるんでしょう。

それなのに、対して努力もしていない私が字が汚いと公言して、改善のための行動を起こさないのは、字が汚くて困っている人たちにとても失礼だと思いました。

 そうして、意識の改善ができたことが一つ助かったこと。

 

 そして二つ目が、「本当に字が書きたくても汚くしか書けない人がいる」としれた点です。

私は字が汚いですが、書道とかは何枚も何枚も練習しました。この何枚も、の基準は、しっかり習っている人にとっては少ないでしょうが、中学校生活の間でかなり熱心に練習するようになりました。そうして練習すると、やっぱり上手くなるんです。

特に長野に来ると書道を習っている、と言う人がかなり多く、賞を取れるほどではありませんでしたが、それでも下手ではないし、左利きということを考えたら上手い、と言える程度ではあったと自分で考えています。

学校での書道作品なんてピンからキリまでなので、私が自分で上手いなんていうのはおこがましいとも思いますが…。

 

だから、自分が練習すればある程度はうまくかけたということもあり、

字を綺麗にしようとしてる人=字が綺麗

練習していない人=字が汚い

という感覚はありました。

色々な問題があって、文字を認識することや書くことに苦労する人がいるというのは知識として知っていましたが、

それでもどこか他人事というか、実感はなかったです。

 

 でも、こうして本の登場人物となることで実際に字を書きたくても書けない、という人がいると実感できたというか、やっと対岸の火事ではなくなった感じです。

 

汚いよりは綺麗な方がいいという考えはあまり簡単に変わりませんが、

自分の常識を他人に求めないようにしたいな、と思います。

 

 

 

4. 鳩子さんの大人としてのあり方

 

 この本の感想として最後に描きたいのは、主人公の鳩子さんの凄さです。

 

色々な内容の手紙を任されるわけです。

お祝いのメッセージ、お悔やみ状、そういったものもありますが、

中には「天国の人からの手紙」や「絶縁状」なんていう物騒なものまで。

 

 でも、すべての手紙に驚いたりはしつつも誠実に取り組む鳩子さんの姿は、

自分も励まされるというか、背筋を正されるような思いが次第にしてくるものでした。

 

筆跡も変えて、

使うインクやペンの種類も変えて、

内容に合わせてはパソコンも使います。

ポップな字にすることもあれば、男らしい字にすることもあるし、

変幻自在です。

その字を書いている間、鳩子さんは鳩子さんではない依頼人になります。

その人のことを考えて、依頼人さんだったらどう書くか、どんなことがこの手紙に求められるのか。

文体から封筒、手紙の色まで、手紙の使われる道に合わせて全てを変えています。

 こうした、自分の全てをかけて取り組む仕事をやっぱり綺麗というか、読んでいて読み手も真剣になるし読み終わった後は清々しくなるものです

 

 こんな仕事がしてみたいな、と思います。

 

時には、代書屋という仕事の利益よりも、その依頼人の態度の悪さを優先して仕事を断ることもあります。

個人商店の強みとも言えますし、作中ではハッピーエンドになっているものの、やはりお店としては満点の回答とは言えないかもしれません。

それでも、読み手としてはより鳩子さんの情熱が伝わってきますし、ヤンキー気質もちょっと出てきて楽しいところです。

 

 最初の頃は代書屋という仕事を嫌っていたというか、先代を嫌っていた鳩子さん。

でも、本を読んでいると鳩子さんは字が好きで、字を通して何かを伝えることが大好きなんだろうな、と思います。

あくまで代書屋としての姿を描いている作品ではありますが、

鳩子さんや鳩子さんと交流のある町の人々、そして先代との話から、

鳩子さん自身が素敵な人だということが存分に伝わってくる作品でした。

 

 自分の手紙は、今のところは自分で書きたいですが、それでもツバキ文具店を訪問してみたいです。

色々な文房具にまつわる話とかも聞けるかもしれません。

 

 

5. 最後に:字を書いてみたい、と思わせる作品でした。

 

 私はハリー・ポッターのスネイプ先生が好きなのですが、スネイプ先生の文字を真似したすぎて少し前にインクを買いました。

万年筆でないとかけない字体だったんですよね。使っている紙が羊皮紙なので。

 

 万年筆は、プレゼントとして贈られて持っているものが一つあるのですが、インクがなくて数年間使っていませんでした。

春に、初めてインクを入れて使ったので、また字の練習の再開と同時にやり始めたいな、と思ったところです。

 

日常の中の非日常を体験してみたい人、

キラキラしたお話が読みたい人、

ほっこりしたお話が読みたい人、ぜひ読んでみてください!

心が優しくなるというか、和らぐ。そういった本です。

 

 最後までお読みくださりありがとうございました。癒された作品でした。興味を持った方はぜひ読んでみてください!

中村桃子さん『「自分らしさ」と日本語』読了! No.2 日本語は変わってきたし、変わっていくもの「方言、女ことば、敬語、…」

 こんにちは。毎日時間配分をつい忘れてしまう今日この頃です…

 

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目次

 

 

本の内容、筆者紹介

 

今回は、前回の続きとして中村桃子さん『「自分らしさ」と日本語』の感想を書いていきます。第1章〜3章までの感想は下の記事に書いてあるので、ご覧ください。

 

chirpspring.hatenablog.com

 

本は2021年の5月10日に発売されたもので、ちくまプリマー新書発刊です。

中村燈子さんは社会言語学ジェンダーの関係などについて色々な本を出されています。今回の本は初めての若い読者向けの本だと思います!

 

 内容は7章に分かれていて、それぞれ

  1. アイデンティティ表現の材料としての「ことば」
  2. 名前ー「わたし」を示すことばの代表
  3. 呼称ー呼び方で変わる関係
  4. 「ことば」とアイデンティティの結び付き
  5. 敬語ー「正しい敬語」から「親しさを調整する敬語」へ
  6. 方言ー「恥ずかしいことば」から「かっこいいことば」へ
  7. 「女ことば」ー伝統的な<女らしさ>から辛口の材料へ

となっています。

 

 今回は、第4章から感想を書いていきます。

 

 

第4章:「言語要素」と先入観

 

 4章では、まず言語要素の持つ意味について説明していました。

言語要素とは、音や単語や文などの言葉の要素のことを指します。

 

言語要素が変わると、その言葉や文章の持つ意味が変わってきます。意味の中にも、文章の持つ内容の意味と、その他のニュアンスに左右される社会的意味があるそうです。

 社会的意味の違いは、話している人との関係性の違いに関わってきます。敬語を使う相手なのか、上から目線なのか、フラットなのかなど。関係性の違いはそのまま表すアイデンティティの違いとも言えるよう。(詳しくは前回の記事参照)

 

 これが、そもそも「言葉」はどうアイデンティティにつながるのか、という疑問への答えとなってきます。

 

 この部分も例がわかりやすく面白かったのですが、一番面白かったのは4章の最後の方で、グループを区別する理由がないと、「〇〇ことば」は成立しないとありました。

 確かに、何かを「〇〇ことば」と示した時、それとは違う別のグループが存在していることになります。

 明治時代に政治の中枢を担ったり東京で学んでいたりした男性が、自分たちの使う言葉を教科書に盛り込んだからこそ女ことばという表現が生まれました。それは、教科書に書いてある男性の話す言葉と、女性の話す言葉を区別する必要があったからです。

 そして、ディズニーアニメを分析すると悪役の40%以上が外国語のアクセントで英語を話すのに、標準的な英語を話す悪役は20%にも満たず、「標準英語を話す善人」と「外国語訛りの英語を話す悪役」と区別しています。

 これは、「外国人は悪者だ」というステレオタイプを表現できます。でも、「外国語訛りの英語」に「日本語訛りの英語」と「韓国語訛りの英語」をつけないのは、日系外国人と韓国系外国人を区別する必要が視聴者にはないからです。視聴者にとっては、善人に韓国訛りの英語を話させて、悪役に日本語訛りの英語を話させる意味がありません。

 

 このように、「〇〇言葉」が担うものには社会の区別や差別を支えるイデオロギー(社会に広く認められる考え方)が密接に関わっていると、本にはありました。

 

 この部分、そのあとの章の導入のような役割を担っていたため、あまり感想を述べる感じではなかったのですが、それでも納得するところは多かったです。

「ザマス言葉」を話す人とか、下町言葉を話す人とか、

そういうキャラがいればなんとなくではあるにしろ、

そのキャラたちの育ちや、性格、そういったものに思いがよります。

それは、自分たちがスタンダードであるという意識があり、そのうえで

「こういう発言をする人は、こういったことをしやすいはず」

という先入観をすでに持っているからです。

 先入観というのは、気づかないうちに作られていて、それが実際にはもうなかったりするのならまだいいのですが、「外国訛りの英語を話す悪役」などが出てくると差別につながりやすいと思いました。

 言語、ことばが持つ力というか、ことばが表す人々のアイデンティティってかなり強いんだな、と思います。

 

 

第5章:敬語の乱れは悪いもの?

 

 そのあとの5章では敬語の働きについて書いてありました。

ここでは、

<社会人にとって敬語は重要である>

  • 正しい敬語の知識を持つことはその人の教養や地位を表す
  • 日本にはそれぞれの場面で使い分けるべき敬語がある

という「敬語イデオロギーを最初に説明しています。

 

 そして、

今日本では敬語の持つ<上下関係><親疎関係>の表し方が少しずつ変化しており、

「尊敬している人、目上の人に敬語を使う」よりも

「親しい相手には距離感をもたらさないため敬語を少しずつ控える」意味合いの方が大きくなってきていると書いていました。

 

 そういった変化により、

尊敬の意味合いも表しながら距離感を縮めるための新しい言葉遣いとして「〇〇っす」などの省略した敬語が生まれてきているようです。

 

ですが、これは敬語イデオロギーを尊重している人たちにとっては

「自分自身の尊厳のための敬語」と「正しい敬語」の二つともを無視しているようなものに取れるため、よく批判されているそうです。

 

 この部分、いわゆる「ら抜き言葉」などの「日本語の乱れ」といわれるものに共通するな、と思いました。

ら抜き言葉も、ちゃんとした理由があって、そうなることが流れとしては当然というか、当たり前とも言えるものです。

 

ただ、私はできるだけら抜き言葉を使わないように意識しています。それに対しての理由を述べよと言われると、特に言葉にはできないのですが…。

 日本語の乱れと言われるものは、決して理由がなく起こるものではなく全てそれに応じた理由があるはずです。

今回の「〇〇っす」という新しい敬語も、それが生まれた理由についてはなるほどな…と思いました。

 

 私は、同級生など、「実際の社会的地位(?)+それぞれの意識」が対等な場合、タメ口で話すことに違和感は全くありません。

引越して最初にクラスメイトと話すときも、最初からタメ口で話してもらってたのでこちらもタメ口でしたし、それは「親しくしたいです、警戒心はありません」ということを示すのに役立つと思います。

 

 でも、親しくない人には敬語で話しますし、こちらが敬意を示したい場合はタメ口でいつも話している人にも敬語を使うことがあります。それには年齢はあまり関係ないかな…と思っています。

 そう考えると、敬語の使い方ってとても難しいんですよね。

敬語をどう使うか、いつ使うか、誰に使うか、程度はどうするか、そういったことを感覚で掴みながら話していかなければならないので、「〇〇っす」などの新しい形が生まれるのも納得です。

 私は「〜っす」は使いませんが、「なので」と「なんで」の言い換えなどは、何回か話したことのある大人にすることも多いため、それも「新しい形の敬語」に通じるところがあるのかな、と思いました。

 

 

第6章:方言が生まれた経緯と、標準語が生まれた経緯

 

6章では、方言について書いてありました。

明治時代に教科書が作られたとき、そこで使用されたのは

「東京で、教養のある(中流階級の)、男性の話すことば」だったそうです。これが、いわゆる今の標準語です。

この時点で排除されたのは

「東京以外で」

「教養のない(下流階級の)人の話す」

「女性の話す」ことばでした。

方言、べらんめえ言葉(下町言葉)、女ことばなどに代表されます。

しかし、東京で学ぶのも地方出身者が多いということで、地方の小学校でも標準語が教えられるようになりました。

 ここから、標準語を話すのが正しく、方言を話すのは間違っているという考えが生まれたようです。

 

 それにより、方言を話す人は「田舎者」と思われ、つい数十年前まで方言を話すのは恥ずかしかったことのそう。

 ですが、今は「方言萌え」の考えが普及し、方言も受け入れられているどころか、憧れを集める場合もあります。

 

 方言を使う場合、

「もともとその地域の方言を使う」

「話す人によって使う子おt場を方言と標準語で変える」

「出身でなくても使うことで、自分のアイデンティティを変化させる」

の三つが理由としてあるそうです。

 前回の記事で書いた、女子の使う「ウチ」も三番目の理由からくるものです。

こうした方言は、時にその方言からイメージできる物が特定される(「〜ぜよ」で坂本龍馬など)ため、

そのアイデンティティを表したい時にわざと方言を使うこともあるそうです。(関西の言葉で容疑者を威嚇する警官など)

 

 

 標準語が東京で使われていた言葉というのは知っていても、三つも区切りがあってから作られたものと知ると、「標準」というのは人間が勝手に作られるものなんだな、と改めて思いました。

その場合、長い間に渡って京ことばが「標準語」として認知されていたんでしょうか。

それとも、学校がない上に標準語を広めよう、という考えがなかったため、例えば東北の人が京ことばを聞いても昔は「標準語話してる人だ」とか思わなかったんでしょうか。

 

 地方出身のことを隠して、方言を使っていなかった芸能人やアーティストが、「標準語=正義」という考えが薄まってから地方出身だとカミングアウトした事例がある…と親に聞いたことがあります。

少なくとも今、地方出身が受け入れられる、しかも方言に憧れる人も増えている、というのは前よりは生きやすいのかなとも思います。

ただ、私のように似非方言を使う人は、どうしても使いたいならしっかりその方言について学んだり、最低限の知識を溜め込んでから使う方がいいはずです(とか言っている割に、自分で調べたことはほとんどないので盛大なブーメランとなっています)。

これについては、方言を使う地域で生まれていないため、どうとも言えません…。

 

 

 

第7章:女ことばは新しい?

 

第7章では、女ことばについて書いていました。この章は、いろいろな事柄が書いてあり、読んでいて新しい発見も多くとても面白かったです。

 

 簡単にまとめます。

「女ことばは、女らしさと結びつき、昔から女性が使ってきた言葉遣いから自然に成立した」という主張に対する問題点>

  • 今使われている文末詞「よ」「わ」などからたどると、昔というのは明治時代の女学生が使い出した言葉を指すことになる(時代としては新しい)
  • 「女らしさ」というのは一つにまとめられるものではないのに、周りが求める女らしさから外れる人は批判される(女ことばには「控えめな女らしさ」が要求されている)
  • 昔の女性も女ことばを使っていないものは多くいる(「僕・君」という女性もいたし、「おとっつぁん」「行く」など使うものもいた)

 

ちなみに、明治時代の頃より「最近の女性の話す言葉は乱雑になった…」と嘆く人がいるため、「最近の女性の言葉は乱暴で…」という主張は150年前からされていることになります。

これは、「女ことばは昔の女性の話す言葉から成り立つもの」という前提があるからこそ成り立つものです。

 

女ことばを目にするのは、翻訳の文であることが多いのではないでしょうか。

日本の女性ももうあまり使わない「〜だわ」などの言葉を、英語や他の言語を話すはずの世界中の女性が使っているかのように翻訳している。

これが、「<控えめで丁寧で優しい女らしさ>は世界中の女性が持っている」という考えの助長にもつながると書いてありました。

 

 この章には他にも、

  • 女ことばが日本の伝統と言われ始めたのは戦中であることの理由
  • オネエ言葉があってオニイ言葉がないこと
  • 女ことばが攻撃的に使われるようになっていること

などについて書いています。

この、戦中であることの理由は特に面白かったです。

こういう理由があって、人はそれにすがるんだな…と思うと、なんというか,

身勝手なものだな、と思いました。

 

 

これを見ていると、言語のルールや常識を決めるのは全て人の都合であって、それは変わりやすくもある、ということを実感しました。

 女ことばとしてあっても、それを実際に話す人はほとんど見たことがありません。お嬢様キャラの「よろしくてよ」とかも同じです。

こう言った言葉の使用は、

その登場人物のキャラクターを誇張しやすくするのと同時に、

読み手の価値観を知らぬままに変化させているものかもしれません。

 

 流石に、全員の女性が女ことばを使うべきだとか考えている人はいないと思いますが、今の漫画とかからも読み取れる、昔からある女性へのイメージを当たり前と思いすぎて、攻撃的な発言をする女性を非難する人は多いのではないでしょうか。

 

 それでも、日本語は変わってきたということを今までこの本の中で読んできたのだから、

「女ことば」から変わって、人々の考え方を変えることもできるだろうし、その逆もできる可能性はもちろんある、と思いました。

 

 

まとめ:あとがきが優しい!

 ということで、『「自分らしさ」と日本語』後半の感想を書いてきました。

この本、書いてあることもとてもわかりやすくてサクサク読めましたし、内容も興味を引くものが多かったので、「入門書」として面白かったです!!

いろいろ、この筆者の方の本も読んでみたいと思いました。読んでいる間に、「え、でもこれは違うんじゃない?」とか思うことがあったのですが、あとがきにこう書いてありました。

 

「わかりやすい」説明には、必ずわかりやすさからこぼれ落ちてしまう真実がある。それは、読んでいた時にみなさんが「あれ?」とか「うん、でも」と感じたところだ。

 みなさんが「あれ?」と感じられるのは、毎日「ことば」を使っているからだ。どうか、その違和感を大事にしてほしい。

 

このあとがき、読んでいて嬉しくなるというか、もっと読んでみたい!という気持ちを増幅させてくれました。

読んでいて感じたモヤモヤを、あとがきでこうして解消してくれる本っていいですね。

 

 今回の記事では、(残念ながら)内容紹介が多くなってしまったと思います。

でもここで書いた内容以外にも楽しめた内容は盛りだくさんでした。一冊の本に書いてある内容の面白いとこどりなんて、2記事だけでできるわけがありません!

ぜひ、興味を持ったり、面白そうだな、と思った方がいたら読んでもらいたいです!

勧めてくれた父親に感謝!

勉強になりましたし、言語っていろいろな意味ですごいな、と思いました。社会言語学って興味深いです。でも、もちろん本に書いてあることは一人の意見なので、これに対する反対意見もあるはずです。そういった意見にも触れていきたいと思いました。

 

 最後までお読みくださりありがとうございました。楽しんでいただけたら幸いです!言葉で自分を表現することについて、学ぶことができました!

中山桃子さん『「自分らしさ」と日本語』読了! No.1 自分の名前とアイデンティティ

 こんにちは。

今回は、昨日の夜読み終わったばかりの本の感想を書いていきます!使える時間は決まっていて、その中で読みきりたかったので、本を読んでいる間は時間の進みを遅くしてもらいたい、とすごい思いました…。

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目次

 


本のあらすじ紹介、著者紹介

 

 読んだ本は、中山桃子さんの『「自分らしさ」と日本語』という本です。ちくまプリマー新書のもので、2021年の5月10日に出版されました。つい最近ですね。

 筆者の中山桃子さんは、社会言語学ジェンダーの関係などを研究していて、関連書籍も多く書いています。その中で、子供、学生などの若い読書に向けて書いたものはこれが初めてだそうです。

 

 

 内容としては、7章まであります。

  1. アイデンティティ表現の材料としての「ことば」
  2. 名前ー「わたし」を示すことばの代表
  3. 呼称ー呼び方で変わる関係
  4. 「ことば」とアイデンティティの結び付き
  5. 敬語ー「正しい敬語」から「親しさを調整する敬語」へ
  6. 方言ー「恥ずかしいことば」から「かっこいいことば」へ
  7. 「女ことば」ー伝統的な<女らしさ>から辛口の材料へ

に分かれていて、もちろん全て興味深かったですが私は特に第3章と第7章が印象に残りました。

 

 

第1章:アイデンティティと言語資源

 この本では、アイデンティティという言葉がよく出てくるため最初にアイデンティティという言葉について説明します。

 アイデンティティとは、一言でまとめると「自分がどんな人なのかというイメージ」のことです。

アイデンティティにも考え方がいくつかあり、本質主義」と「構築主義が本書では語られています。

 

本質主義とは、

アイデンティティはその人にあらかじめ備わっている属性のようなもので、人はそれぞれの属性に基づいてコミュニケーションをする」という考え方。

 

 

対して構築主義

アイデンティティは他の人と言葉を使って関わり合うことで作り続けるもの」とみなす考え方です。

 

この場合、人と関わりあう前はどうなるのかという疑問に対して、

私たちは、繰り返し習慣的に特定のアイデンティティを表現し続けることで、そのアイデンティティが自分の「核」であるかのような幻想を持つ。

と答えています。

アイデンティティは一人に一つしかないのかという質問には、

現代人が生きる人間関係はより複雑になり、結果として、場面ごとに異なる複数のアイデンティティを生きる必要が発生したのだ。

としていました。

 

 

 第1章で特に面白かったのは、「言語資源」という考え方です。

これまでは、「謙虚な人は丁寧な言葉遣いをする」などといった、その人の性格によって使う言葉が変わってくる、とする考えがよく言われてきました。

 しかし、本書では

人と関わりあう前から<謙虚な人>や<おうへいな人>がいるのではなく、

同じ人でも「ていねいな言葉づかい」をするかしないかによって、<謙虚>になったり<おうへい>になったりする。

と書いていました。

その「ていねいな言葉づかい」を言語資源とみなすと、謙虚な人もおうへいな人も場面に応じて言語資源を使うことができます。

 

 この考え、今までなんとなく感じていた違和感を言葉にしてくれたようでした。

例えば、私は大人に対して、もしくは目上の人や初めて会った人に対しては敬語を使います。

同年代の、本についてよく話す人や頭を使う話をする人には、敬語は使いません(場合によりますが)。そして、オタクの友だちと話すときは「語彙力ないね」と言われても仕方ないような話し方をします。

話している人によって、「ww」や「笑笑」を使い分けたりするときもあるし、

絵文字を使うか、顔文字を使うか、そういったものを使わないかも、

一緒に話している人の文字の使い方によって分けるときがあります。

 

 例えばボランティアで知り合った人にオタ友と一緒に話すときのような言葉遣いで話しとします。

その時に、

その人のアイデンティティや性格などありきで「この人はこういった言葉遣いをする人だ」と思っていたら、

「これは誰だ?」と相手は思うかもしれません。

 

 よって、その人の使う言葉なんていろいろなシチュエーションに応じて変わるんだから、「謙虚な人」=「ていねいな言葉遣い」と言われると、それはどうなんだろう…と思っていました。

 人のアイデンティティや性格は「謙虚」「おうへい」の一言で説明できるものではなく、先に書いたように相手との関係などによって少しずつ変わってくると思います。

それは、相手が自分のどこに注目しているのかにも関わってくるし、自分がどこを相手に強調しているのかにも関わってきます。

 自分が相手に「自分はこういう人間ですよ」と思わせたい、もしくは自分のアイデンティティを意識して作り出したい、という機会もあると思うんですね。

そういった時に「言語資源」を使い、「この言葉遣いでこういうイメージができるな」と考えた上でそれに合わせた言葉遣いをする。便利だな、と思いました。

 人が場面に応じて言葉遣いを変えるのは周知の事実なので、今まで考えていた違和感が文字として「構築主義」「言語資源」となって出てきたのでありがたかったです。

 

 

第2章:名前とアイデンティティ、名字は?

 

 第二章では、名前についてを書いていました。

ハリー・ポッター」のキャラクターであるヴォルデモートは、「例のあの人」「名前を言ってはいけないあの人」と言われています。

それは、ヴォルデモートが恐れられているため名前を言わないという、「名前=本人」という考えのもとに成り立ちます。

 ここからも、名前はその人そのものと捉える考え方が読み取れます。

 

 選択的夫婦別姓についてが今話題になっていますが、私の母親も居心地がいいのは旧姓の方だ、ということがありました。それは、昔からずっとその名前でいたから、というのもあるでしょうし、語呂の問題もあるでしょう。

さらに面倒臭い手続きや、仕事などでの名前の変更。

 名字を呼ぶ文化のある日本では、例えば学校の同窓会の時や、職場にいる時、名字を呼ばれることがとても多いと思います。そういった時に名字が変わっていると、「結婚したんだ」と思われ、名字が戻っていると「離婚したんだ」と思われます。

そして、大抵それは女性にのみ適応するものです。

つまり、名字を変えなければいけない女性はプライベートを周りに察せられることになります。

 また、仕事でも今まで使ってきた名前を変えるのは「連続性の喪失」につながると書いてありました。これも、名前がその人の強いアイデンティティになる、ということの証だと思います。

 

 だからこそ、仕事では旧姓を使い続ける人もいますし、ネット上ではハンドルネームを使う人なども多くなってきています。

これは、選択的夫婦別姓にのみ関わることではないと思いますが、

「多様な人と触れ合うことで多様なアイデンティティを持つようになった」

という一章の内容と繋がるのかも知れません。

 

 複数の名前を使い分けることで、複数のアイデンティティを表現できるようになるのでしょう。

 

 

第3章:自分のことをなんと呼ぶ?家族のことをなんと呼ぶ?

 

 第3章は、呼称についてのページでした。

 皆さんは、自分のことをどう呼びますか?

私は、「私」と自分のことを呼び、友達といるとき(特に中学生の時)は「ウチ」と自分のことを言うときもありました。親がエセ方言は苦手なので、家ではあまり使いませんでしたが。

 

 

多様な自称詞と男女の違い:「私」は大人にならなければいけない?

 

 日本には多様な自称詞があります。ハリーポッターを読むととてもよくわかりますが、「僕」「俺」「我輩」「俺様」「わし」「わたくし」「わたし」など…。漫画「ベルサイユのばら」では、「わたし」と「あたし」の違いが取り上げられていたと思います。

 

 自称詞は、それだけでその人のアイデンティティを表せるものなのです。ジャイアンは、粗雑で乱暴な性格だから「俺」と言い、のび太は気弱な性格だから「僕」というなど。

でも自称詞でその人のアイデンティティが表せるといっても、自称詞は人の数だけある訳ではありません。だからこそ、気弱でも乱暴でもない子の自称詞は何にするべきか。そういった迷いも産むため、自称詞だけではなく「〜ぞ」「〜ます」といった、

他の文の要素でアイデンティティを細かく調整するようになりました。

 

 そもそも、性別による一人称の違いはいつから出てきたのでしょうか。

本によると、明治時代のことらしいです。教科書を作るときに、国語は「男性のためのもの」だったので、女性の使う言葉遣いは省いたのだとか。「男が女の言葉を使うのは格好悪い」という認識ができたのも、「男のための」教育が進んで確立した昭和の頃だったそうです。

 それでは、なぜ(昭和と比べて)差別の少なくなった今でも男女で自称詞は変わっているのでしょうか。

それは、今の社会が「異性愛規範」をもとに作られているからだ、と書いてありました。

正反対のものがお互いを補うことで対になると考えられてきたため、自称詞は男女で別々になってきたのです。

 

 ここまでが本に書いてあることで、ここからは本を参考にしたわたしの意見です。 

 

自称詞が男女別々のものとなったことは書きましたが、いわゆる「ボクっこ」のような、女子でも「僕」「俺」「おいら」を使う人はいます。

さらに、自分のことを名前で呼ぶ人もいれば、「ウチ」という人も最近増えてきています。

わたしは自分のことを「わたし、ウチ」で表現しますし、友達の中には女子でも「オレ」「オイラ」という人が何人かいます。

 

 これには、ふたつ理由があります。

 一つ目は、さっき言った「自称詞でその人のアイデンティティが調整できる」ことが関わっています。自分は「わたし」のイメージと違うと思うから、だから他の自称詞を使う、と言った意見です。

これは、男性にも通じます。「僕」「俺」に似合わないから、他の言葉を使うということです。LGBTQの人などで、「俺」というのが嫌だった、と告白している人も多いと思います。

 

 そして二つ目は、「わたし」は背伸びした自称詞になり得るということです。

男子の場合、子供の頃は自分の名前を呼ぶこともあるでしょうが、大抵「僕」「俺」と言った自称詞になり、その後大人になると公的な場では「わたし」ということも求められます。

(「自分の名前+くんなど」→「僕・俺」→「私」)

 

それに対し、女子は子供の頃から「わたし」と呼ぶことを求められ、子供としての段階が男子より少ないのです。これ自体は他の文章で読んだことがあったのですが、本書ではそれが

「突然大人の女性になる/性の対象物」となることと等しく、それを避けるために他の自称詞を使い始めた、と書いてありました。

(「自分の名前+ちゃんなど」→「私」)

 

 子供の頃から「わたし」を使わなければいけないのは大人になることを求められていること、という意見は、ある程度納得できますし、まだ子供でいたい、と言った思いから「新しい少女性」のために「僕、俺、ウチ」を使うのは筋が通っていると思います。全く新しい自称詞をつくることも可能ではありますが、周りに通じません。

 

 わたしは、自分では「県民性漫画を読んで憧れたから」という理由で似非方言のように「ウチ」を使っていると思います。片親が地方出身なので、その方言に憧れていたというのもありますが、そこは「ウチ」を使わないので「ウチ」は多分完全に本や周りの影響です。

ただ、「周りの影響」というのはある程度大きいと思っています。その影響は、もともとそう言った「新しい少女性」を想像するためのものだったのか?と思うと、違和感はありますが少し面白くなりました。

 

 

自分の名前を呼ぶのは子供っぽいの?

 

 そして、自分のことを名前で呼ぶことについて。まおという子が居たら、自分のことを「まおは〜」とか呼ぶ感じですね。これは、意外といると思います。

でも、大抵の場合「子供っぽい」と言われます

 

 わたしも、自分を自分の名前で呼ぶのは幼児まで、と思っていた節がありましたが、この頃はその考えも変わってきています。

名前はその人のアイデンティティで、自称詞もその人のアイデンティティを表すもの。

だったら、名前を自分の自称詞として呼ぶのは、ある意味一番アイデンティティが表されるはずです。

自分が自分のことをなんて呼ぶのかは周りに影響されることが多いと思います。それで、本人も望まなかった性自認が形成されるかもしれないし、セクシュアリティについての考えもそこで形成されるかもしれません。

だったら、他の自称詞について持つイメージが自分とは違うと思ったら、自分の呼びたい用に自分のことを呼ぶのが一番だと思っています。

 

 自分の名前呼びは注意するべきではないと思うし、変えなくてもいいものです

年が経つにつれて「わたし」や「僕」に変えるのは別にいいですし、もちろんそのまま名前で自分のことを読んでもいいはずです。

今の認識が「幼い呼び方」だとしても、それを理由に直す必要はないんじゃないかな〜と思いました。

 

 

呼称の変化が人間関係を変化させる:家族で話し合います

 

 そして、この章ではもう一つ呼称について言及されていました。それが呼称の変化が人間関係を変化させる、ということです。

 

 例えば「さん付け運動」。

若い社員の意見を積極的にとりあげたいときに、「社長」「課長」と言ったのでは上下関係が強く出てしまい、発言しづらくなります。そういう時に「中村さん」「佐藤さん」とさん付けすることで、上下関係をできるだけ無くそうとする動き。

 

 そして、この頃は自分の子供に「〇〇さん」と名前+さんで呼ばせる親も増えてきています。わたしの周りにも何世帯かそう言った家族がいます。

「自分が親との関係で苦しんだから、子供とは対等な関係でいたい」という考えも影響しているようです。クレヨンしんちゃんでも「みさえ」と母親を名前で呼んでいるようですね。

 

 私の家では、親が、そもそも名前で呼ぶという発想がなかったため、ずっと「お父さん」「お母さん」でした。

パパ・ママはダメで、父さん・母さんは「ミッフィー」に憧れて一回頼み込んで一日だけ呼んだ記憶があります。

イギリスから帰ってきてからは、mummy, mum, daddy, dadと呼ぶようにはなりました。もう全員が誰をどんな呼称で呼ぶのか、というのは無意識に決まっていて、話し合ったこともありません。

でも、この本を読んだ後に父親と話して、今度家族で話し合って、自分がなんて呼ばれたいかを伝えよう、ということになりました。

 

多分、ほとんど話し合っても変わりません。もしかしたら、ネタ的に名前を利用した呼称を親に使っていいことになるかもしれませんが、95%変わらないと思います。

 

 それでも、何も変わらないであろうことがわかっていても話すのは大事ですし、

こう言った人と人との関係に関わることや自分とのアイデンティティに関わることは話した方がいいと思っています。

ちょうど本を読んだ後に全員が一階に集まったので、そこでちょっと強引に話し合いをセッティングしました!

 

 何も変わらないとしても話し合うのは大事ですし、自分が呼ばれたい名前がいつ変わるかはわかりません。

定期的にこういう会を開くのは絶対に大事だと思うし、同居している人ならなおさらです。

いつにするのかは決めていませんが、夕ご飯のついでにも話せるでしょうし、今から少し楽しみです!

 

 

人がこれだけ自称詞や呼称にこだわるのは、まさに、ことばが関係をつくり、その関係の中で自分のアイデンティティもつくられるからなのだ。

 

 

最後に:次の記事もぜひ読んでください!

 ということで、中山桃子さんの『「自分らしさ」と日本語』全7章中3章までを紹介してきました。

まさかこの本でこんな字数書くことになるとは…。明日の記事(?)で続きを書きます!正直予想していませんでしたが、あらすじや内容が多すぎたのかな?ちょっと反省です…。

 

 読んでいてとても楽しい本でしたし、いろいろなことを考えられました。

大人が強制しなければ自分のことを名前で呼ぶ人も多いと思うんです。

だから、

誰もが自分のことを好きなように(人を不愉快にさせない程度で)読んで、それが当たり前に受けいられる社会になればいいな、と思います。

呼称についてそこまで考えたことがなかったので、皆さん楽しめると思います!

 ぜひ興味を持ったかたは読んでみてください!

 

 最後までお読みくださりありがとうございました。今回はブクレポでしたが、長めになりそうだったので切り上げてシリーズにしました。ぜひ次の記事もお読みください!

学校図書館について、15歳が思う事 〜『蛾のおっさんと知る衝撃の学校図書館格差』を読んで〜

 こんにちは。庭の草取りをしなければいけないのですが、日中外に出るのは暑いので4時ごろの日が陰った時間を狙おう!と思うと、ちょうどそれくらいの時間から雨が降ってくるんですよね…。屋内で何かに熱中しているといづかないので、それで一日が過ぎていきます。今日は忘れずに草取りをします!

 

 

目次

 

 

1 著者紹介とあらすじ紹介

 

 今回は、ブクレポをしていきます。読んだのは、

山本みづほさんの『蛾のおっさんと知る衝撃の学校図書館格差 〜公教育の実情をのぞいてみませんか?〜』

です。図書館で見つけて、面白そうだったので借りてきました!

 

 

 それではまず、著者紹介とあらすじ紹介をやっていきます。

 

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著者の山本みづほさんは、35年間長崎県の公立中学校国語科教員として働いてきました。自費で、県内、国内、そして海外の学校図書館公共図書館を見学し、全国の学校図書館の運営などに関わってきた方です。


 本は全部で5章に分かれていて、「蛾のおっさん」がみてきた学校図書館を山本みづほさんに語り、みづほさんは自分の司書教諭としての仕事を語る、といった感じになっています。

 蛾のおっさんというのは、著者の友人の夢に突然現れた変なキャラクター。明かりをつけると群がってくる「蛾」と似ていて、羽のついた全身白タイツのおっさんです。世界中の学校図書館などを飛び回っています。

 

内容は、

  1. 悲しい学校図書館を見た
  2. 楽しい学校図書館を見た
  3. なぜこうなったのか考えるのだ
  4. 私の学校図書館体験
  5. 愉しきかなトランジッション

の5つの章に分かれていて、学校図書館のこれまでと現状を伝えていっています。

タイトルの通り、全国で経験してきた学校図書館の状況を伝える本です。対話形式のところもあれば、何よりおっさんがシュールなので、堅苦しくなく楽に読み進めることができます。

 

 

2 前書き:教育について書く

 

 まず前置きとして、私のことを少し書きます。

私は、多分教育に関心がある方だと自分で思っています。

家庭環境や、渡英経験、学校で感じてきたこと。

そういったことから教育には関心がありますし、何より本が大好きなので、学校図書館や国語の授業には興味を持ってきました。

 ですが、学校の仕組みについてどう思うかは書いても、教育について書く、ということはあまりなかったと思います。

 

教科書による学びはどれくらい必要なのか、

アクティブラーニングをする意味、

野外教育の必要性、

マーク式テストに合わせるということ、

公立学校(もしくは現在の日本の教育スタイル)の美点と欠点

受験を意識した勉強、

教師の役割と現状

そして、学校に必要な図書室について。

 

他にも、考えることはいろいろありますが、摂取する情報に対して考える時間が少なさ過ぎることもあり、ブログには書いてきませんでした。

こういった意見を書くことに対し何らかの反論も出てくるかもしれないですし、

何より自分がしっかり考えられていないことをぐだぐだ書くのが嫌だったからです。

 

 考えがまとまっていないにしろ、本の感想を書く、ということなら別にいいかな、と思って今これを書いています。

 

 

3 本の感想:学校図書館とはそもそも? -「教員の無知は本当に恐ろしい」

 

 さて、本を読んでの感想です。

この本、私にとってはとても面白い本でした。

 

普通の人なら当たり前のことですが、

私たちは私たちが経験してきた学校の図書館しか知りません。

他にどんな学校図書館があって、どういう役割を果たしているのかは知ることができません。

それは先生方にしても同じです。自分が経験したことのある学校で、司書教諭の方や学校司書の方が忙しく満足な仕事ができていなければ、次の学校でもそれが当たり前と思ってしまいます。

司書教諭の先生にしても、よほど熱量のある先生ならともかく、

ただでさえブラックと言われる教員の仕事とともに

司書教諭としての図書館の世話をするなんて、何時に家に帰れることやら…。

 

学校司書の先生にしても、そこの学校に専任でずっといるならまだしも、多くの学校司書が他の学校との兼任。

週に一回、月に二回、そうやって各学校を巡って、多ければ10校も兼任している学校司書さんがいるのだとか。

それだと連絡もうまくとれないし、何かやろうとしてもそもそもの状況からして無理ですよね。

 

本文にあった、

 

「教員の無知は本当に恐ろしい。それがそのままストレートに目の前の子どもたちに影響してしまうから」

 

という言葉。その通りだな、と納得しました。

 

 

 学校図書館って何だか、皆さんは意識したことありますか?

中には、「図書室」と呼んでいる人と「図書館」と呼んでいる人の中で軽くカルチャーショックがあった、なんて人もいるのではないでしょうか。

東京にいたとき、通っていた小中学校どちらもで学校図書館は「図書室」と呼ばれていました。それが、長野県の中学校では「図書館」と呼ばれているから、日常会話でもちょっとした戸惑いが生まれました。

もちろんすぐ慣れることですし、「中休み」と「二時間目休み」の違いと同じようなものですから、大したことはありませんが。

 

 あれ、元々の成績名称は「学校図書館」なので、正解をつけるなら「図書館」と呼ぶ方が正しいのでしょうか。

 

小中学校と高校に設置された図書館を、学校図書館と呼びます。

さらに12学級以上の学校には司書教諭の資格を持った教員の配置が義務付けられています。職員としての「学校司書」は、努力義務のみです。

 法律としては、学校の施設の中で唯一「学校図書館法」が定められているため、待遇がいいように見えるかもしれません。ただ、運営は自治体まかせとなっています。

 

 吉田茂首相の「バカヤロー解散」を覚えている方、もしくは年齢的にも私のように勉強した方は、どれくらいいるでしょうか。

あの解散のとき、アメリGHQなどの影響から日本では司書の重要性が認知されていて、「免許制司書教諭制度」という、学校図書館に専任の司書教諭を置く法律が国会で提出される予定だったのです。

ですが、その提出直前にバカヤロー発言で即日解散となってしまったため、残念ながら提出できず。

その半年後にもう一回国会で提出しましたが、最初の時の勢いはもうなく、少し腰の引けた法案となってしまいました。それにより、司書教諭は専任職ではなく「充て職」となり、さらに「当分の間置かない事ができる」という文言まで追加されました。それが、1953年のことです。

 

 2003年、日本中の12学級以上の学校に司書教諭を置くことが義務付けられるようになりました。50年間続いた「当分の間」がここで終わったのです。

 

ただ、12学級というのはかなり少ない気が…。

小学校なら、特に人口の多い東京などでは12学級ギリギリあります、というところも多いと思います。でも、例えば中学、高校になると、1学年4クラス。1学年だけで120人以上いなければいけません。その人数が全校生徒の人数、というところも、たくさん知っています。

 

4 どんな図書館が理想形なの?

 

 こうした中、山本みづほ先生がどんな活動をしてきたのか。そして、蛾のおっさんはどんな学校を見てきたのか。

 

  • ハナマル図書館…専任の学校司書がいて、司書教諭や学級担任と常に授業を行なっている
  • マル図書館…専任の学校司書がいるが、授業活用まではまだ行なっていない
  • サンカク図書館…専任ではないが、学校司書がいる(月一回の場合もある)
  • バツ図書館…学校司書不在で、担当する教員もいなくて鍵がかかったまま

 

この4つの基準も出しながら、各学校図書館で行われてきた取り組みが話されています。

 

 学校図書館の中には、ずっと鍵がかかっていて生徒も先生も入らないようなところもあるのだとか。

 さらには、引き継ぎの司書教諭の方がなかなか決まらない、もしくは忙しいため仕事に手がつけられなくて、結局「〇/〇〇から開館できます」といった生徒が責められてしまうことも。

 

 そういったところもあれば、山本みづほさんの行なったことをやるような図書館もあります。

  • 朝の読書を、生徒のみならず教員対象にも行う
  • 雑誌の定期購読をする先生などに頼んで、過去の雑誌や本を持ってきてもらう
  • 公共図書館と連携して、資料を貸してもらう
  • ブックトークの実施
  • 国語の授業の導入を学校司書がやり、興味を引く(いろいろな資料が使える)

 

…正直、こんな学校に居たかった!!

特に、ブックトークや授業での学校図書館の活用、こういう学校に行ってみたかったです。

ブックトークをやったことのある知り合いの人の話を聞くと、それが国語の授業とかでできるのは本当に楽しいだろうな…と思うようなことばっかり。ユニークな本の紹介の仕方などもあり、プレゼンの役にも立ちそうです!

 

 

5 私の考える学校図書館のあるべき姿

 

 それでは、私の思う学校図書館の理想を。私は、学校図書館はとても重要なところだと思っています。

何か勉強をするにも、資料がないと疑問に思ったことを深められない。学習を深めていきたいのなら、5教科に限らず何の教科でも、図書館の資料を活用したいです。

 

 国際バカロレアや、探求型学習…

流行りの言葉ですが、こういったものにも図書館は深く関わってくると思います。その時に必要な知識を得るために、そして他の人の考え方を知るために、本は役立つはずです。

 特に上記のような言葉を並べるなら、

生徒がいろいろな情報に辿り着いたり、いろいろな価値観、考え方に触れるために、

環境のしっかりした学校図書館を用意するのが普通

といった考えを私は持っています。

 その上で、

生徒がどうやって図書館を利用するか見ながら、

司書教諭と学校司書、そしてその他の先生が情報を共有しあい、より利用される学校図書館が出来上がるなら、それが一番の理想形

だとも思っています。

 ただ、この考えは周りから影響されているものです。それこそ、この後高校で国際バカロレアを実践するので、その時に考え方が緩和されるかもしれません。

 

 

6 司書にはどんな役割がある?

 

 そして、学校図書館で働く司書の役割についての理想。

役割、と偉そうに言っていますが、それがなせていないとしても先生方が悪いわけでは全くありません。そんな暇はないと思うし、学校の先生を見ていてもそれが十分にできる人がいたら、本当に超人だと思います。

 

 本書を読んで思ったことがいくつかあります。

まず、司書の先生と、図書館の存在が救いになる、ということ。

そして、本には書いていなかったことで、司書の先生の対応には差がある、ということ。

 

 一番目に書いた、「救いになる」

 本の中には、図書館を心の拠り所としていた人の話が数人出てきました。

クラスに馴染めない、家に居場所がない、他にも様々な理由で図書室に行く人がいます。司書の先生と色々お話ししたいと思っていく人もいます。

 

 みづほ先生が経験した学校の中には、「保健室に来る生徒の数が少なくて驚いた」といった養護教諭の人もいるそうです。それは、保健室に授業中とかに来る人が、休み時間には図書室に行くから。

 教室や家にいる時に、少し休みたくなる場所。それが図書室なのかもしれません。

司書の先生に色々話すのも、先生はいつもそこにいて、話を聞いてくれるから。保健室の先生に色々話しに行くのと同じですね。

前いた学校でも、司書の先生ではないですが、そういった役割を受け持っている先生がいました。休み時間になると、いろいろな学年の生徒がその先生の準備室に入っていくんです。

 これは、「サード・プレイスとしての図書館」としてこの頃認知されてきています。

学校図書館は、

読書センター(本を読む)、

学習センター(授業に役立つ資料など、自習室としての役割)、

情報センター(情報活用を行える場所)としての役割の他に、

「心の居場所」として、家や学校の他にある「三番目の居場所」になり得るのです。

 

 そこを管理して、子供達がきやすい場所にするのが司書の先生たちだと思っています。図書室で一人で座っている司書の先生は、話し相手として生徒の目に映るのでしょう。

 

求めているものが多すぎるかもしれませんが、

環境のいい図書室の構築、

いろいろな授業との連携、

そして生徒とのコミュニケーション。

こういったことを執り行うのが、今のところ私の中で、司書の理想の姿です。

 

 

7 司書といっても様々です

 

 しかし、司書の先生にそれを求めるのは並大抵のことではありません。

それが、二番目に書いた司書の先生の対応には差がある、ということです。

 まず、前述したように、

司書教諭の先生には司書としての仕事ができるまでにたくさんの仕事をこなして、

余裕を作らなければいけない。

これがクリアできて、なおかつ学校図書館を活用できるまでにするなんて超人技です。

 

 また、学校司書の先生でも、専任でその学校につかずにいろいろな学校に行かなければいけない先生も多くいます。

その中で、各学校の先生と連携をとって「ああしたい、こうしたい」というのはとても難しいと思います。

 

 つまり、司書の先生にそこまでのことを求められる待遇が、今なされていないのが大きな問題なんです。

専任で学校司書の先生を入れられれば一番いいのですが、そんなお金もないですし…。かろうじて、いくつかの私立学校ではやっていますが、公立でそれを全国規模でやるのは難しいはずです。

「バカヤロー解散」の波風がこんなところまで来るんですね。

 

 それに、学校司書の先生もいろいろな学校を転々としているため、

それぞれの学校用の図書館便りの作成や、図書委員会とやるイベントなどへの協力など、多忙な毎日を送っていると思います。

そうすると、多くの生徒にも対応しきれず、レファレンスも適当になってしまうことがあります。

 

 聞かれた話題を、そのまま検索キーワードの欄に打ち込んで、ヒットしなければ「ないですね」。

そういう司書の先生も実際いますし、レファレンスに特に関心のある先生ばかりではないので、結局生徒が探したい本にたどり着けないこともあります。

 私の場合は、レファレンスで「ない」と言われたり、公立図書館の場合はレファレンスが手一杯で空いてなかったとしても、親に聞けたのでそれで十分でした。でも、親が読書しない人たちの場合はそれも無理になります。

 

 先生の忙しさや、関心度、そういったもので、その図書館で求めている本に巡り会う可能性は大きく変わってきます。それには「仕方のない」という部分も多分に含まれているはずです。

だけど、そういったことで地域格差、教育格差が起きるのは、個人が悪いとは言えないので、より「やるせない」といった気持ちになります。

 

 

8 「本を読むのは恥ずかしい」そういった風潮がなくなる学校図書館

 

 という風に、本の感想と私の意見を書いてきました。

どちらかというと、私の意見の方が多くなってしまったでしょうか…。

 

 この本は、私の中ではかなり印象深い本です。興味がある方なら、とても面白く読めると思います。

中に書いてあるのは、司書教諭として働いた山本みづほさんの経験談と、蛾のおっさんが見てきた図書館の数々。

 外国の図書室の例もありましたし、もちろん国内の図書室の例も多くあります。

冒頭にも少し書きましたが、図書室は自分が今までにいた学校のもの、もしくは自分が話を聞いてきた学校のものしか知る事がありません。

 だからこそ、こうしていろいろな学校の現状が一冊にまとまっていると学ぶことも多くありますし、考えることも多くあります。ぜひ、興味を持った方は読んでみてください!

 

 私が学校に通い始めてからまだ9年ですが、様々な先生がいるな、と感じます。

小学校の頃ですが、「子供は外に行くのが本来の姿」といって毎日図書館に行っていた私を外に出そうといろいろやっていた先生もいました。

本を読むのはとても大事なことだから、といって学級文庫を多く用意し、本が好きな子にはどんどん推奨してくれた先生もいました。

 特に小学校低学年の時は年齢も関わって、「本を読む姿=みんなとは違う」と思われる節も多かったです。

それでも、本に理解のある先生になると、朝読書や学級文庫を読むのが普通となり、「本を読む姿が市民権を得る」ようになり、休み時間も本を読んだり周りと遊んだり、選択肢が増えるようになりました。

もともと私は本を読んでいましたが、少し本に興味があるかも…という人でも読書するようになったと感じます。

 

「本を読む事が恥ずかしい」と思っている人は、意外と多いのかもしれません。

特に、小学校の時はそういう風潮もあったように感じます。そういった風潮が少しでもなくなれば、生きやすくなる人も多いはず。

もしかしたら、話を一般化しすぎていておかしいことを言っているかもしれませんが、

それでも学校図書館の改善に何らかの形で関わりたいな、と思います。

 

学校の外から、高校生としてできることって何なんでしょう。

小中学校の、そして高校の学校図書館を環境の良いサードスペースにするには、何が必要なんでしょう。

 

 ずっと前から考えていた事が、本を読んでいろいろとつながったせいか、より興味を持つようになりました。

本来なら司書教諭や学校司書の先生方を増やさなければ解決しない問題でしょうが、

今のところはボランティアとしてでも、もしくは別の形ででも、何らかの動きが取れるといいな、と思います。

 

 本当に何をすればいいのかわからないので、前いた中学校の司書の先生に近いうちに話を聞きに行こうかな、と考えているところです。

何かできる事があれば、ぜひやりたい。より良い状況にしたい。

でも、何をすればいいのかわからないし、何かやったとして何も結果が出ないかもしれない…。

なかなか歯がゆいというか、腑に落ちない感じです。今の、暇な時間にやれることへの糸口を探していきたいです。

 

 最後までお読みくださりありがとうございました。長々とした文をここまで読んでいただけて、とてもありがたいです!本の内容自体もとても面白いですし、更にこう言ったことに興味を持てたと思います。まずは、学校に連絡を取ること。何も収穫がなかったとしても、話を聞けるだけでありがたいことです。勇気出します!

 

 

 

関連記事

「サード・プレイスとしての図書館」については、こちらの本を読んでいただけるとイメージがつかみやすいと思います!

chirpspring.hatenablog.com

 

重松清『ゼツメツ少年』読みました!

 こんにちは。今日は、勉強を割としていたのですが、もう難しい…。高校歴史難しいです!

 

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 今回のブログでは、読んだ本の感想を書いていきます!

今回紹介するのは、重松清さんの『ゼツメツ少年』です。2014年に、毎日出版文化賞を受賞した作品です。

 

 

目次 

 

 

作者のイメージ、物語のあらすじ

 

 重松清さんは、いわゆる受験とか読書感想文とかに引っ張りだこの作家さんだと私の中では考えていて、最後には希望の見える作品をよく書くというイメージでした。

少し前に、重松清さんの『きみの友だち』を読みましたが、

この話は私の中でもかなり好きな作品で、読んでいて自分で考えるきっかけが多い、綺麗な本だな、という感想になりました。

 

chirpspring.hatenablog.com

 

 

 この本のあらすじを紹介します。

簡単に話すと、「センセイ、僕たちを助けてください」という小説家の元に届いた手紙から始まる物語です。

送り主は、中学二年生のタケシ。タケシの仲間は二人いて、それぞれ小学5年生のリュウとジュンです。

 

 学校や家で居場所をなくした僕らを、「物語」の中に隠してほしい。でなければ、僕たちはゼツメツしてしまう。

 

 不思議な手紙に答えて、センセイはタケシたちのことを綴り始めました。

ちなみに、場面はリュウの父親が主催している、化石の発掘イベントから始まります。このイベントは、いわゆる不登校の子どもたちを対象としたもので、3人ともこのイベントの中で出会います。タケシとジュンは不登校ですが、リュウは特に不登校というわけではありません。それでも、ある事情はありますが…。

 

 この3人は、タケシの提案から「イエデクジラ」になって、家出を始めます。そこからの話は、タケシからの手紙とセンセイが書いた文章が交互に出てくる感じです。

 

 

感想:どう書くべきか、少し迷いますが…

 

 こちらの話、感想を書こうとしたんですが、ちょっとどう書くか迷っています。

なぜなら、入れ子構造が重なっていて、しかも物語もあやふやなところがあるため、解釈を間違えているかもしれないからです。

 なので、ここではネタバレは少ない、軽めの感想を書いていくつもりです。

 

前述したように、私の中で、

重松清さんは道徳的な教訓も含めていて希望が最後に見える少しウェットな本を書く

、という印象でした。

 

 ですが、この本はその印象からはだいぶ外れていました。

まず、入れ子構造の重なりにより、物語の解釈が難しい。

どこからどこまでが現実で、

どこからどこまでが物語で、

どこにセンセイの脚色が入っているのか。

この世界はどの世界なのか。

そもそも、重松清先生とセンセイは同一人物なのか。

 

 使い古された表現ですが、

ずっと読んでいる間モヤがかかっているような不安感、緊張感があり、

道を見失ったような気持ちのまま、不安になりながらも読み進める…。

そういった感じでした。

 

これも、多分狙ったことなのかも。

迷って、迷って、存分に迷って戦った挙句、登場人物たちがとる選択はなんなのか。

下手に感動モノにしないため、そして、下手に設定を軽くしないため、あえてこういった形の本にしているのかな…と思いました。

 最初は能天気に読み進めていましたが、

だんだんと結末の選択肢が減ってくるような気持ちになって、

最終的には自分がしていた勝手な期待に裏切られたというか、現実は理想とは違う、と突きつけられた気持ちになったというか…。

 

 生きていることが辛くなる、そんな場面に直面したタケシたちが、「ゼツメツ」しないために選んだ家出と、そのあとの選択。

 

 

明言はしていませんが、結末がわかるような言い方を含みます。

 読みたくない方は、二段落飛ばしてください。

 

 

こういったストーリーの鉄板というか、理想は「この長い家出の後で、強くなった少年たちが戻ってくる」という形なのでしょうが、ことごとく裏切られました。物語があやふやなぶん、なんとかわかるところには寄り添おうとした結果、逆にラストで裏切られた感じも強かったです。

これは、結局ゼツメツしたのでしょうか、しなかったのでしょうか。周りへの影響を残した、という意味ならゼツメツではなかったのかもしれません。だけどその、私の読んだ「周りへの影響」というのも、どこまでが想像で、どこまでが現実なのか。やりきれないというか、逃げ場のないラストで、後味がいい、とは言えないです。

 

 

 

 ラストの方のシーンは、セリフが真に迫っていて、読んでいて何か重たいものが胸に乗っかっているような感覚でした。小説の登場人物たちは、ゼツメツしない為にセンセイに手紙を送って、見事それに成功したのかもしれないですね。

 

 

なんというか、嫌いな作品ではないんです。でも、読んでいて辛かったのは確かです。

こういう親もいるかもしれないし、こういう友達/同級生もいるかもしれない。

いや、実際にいるんでしょう。

そう思うと、ただ辛い、よくわからない、という言葉でまとめちゃいけないのかもしれないです。

やりきれない、という言葉も簡単には使いづらい読後感でした。

 

やっぱり、どこかリアルというか、情景がすごく思い浮かべやすいんですよね。

心理描写と背景描写のおかげでしょうか。

エピローグでわかることは多いので、

ページはめくりたいのに、ラストが怖い、という人はエピローグを希望にして読んでいってくれると嬉しいです。

 

 

本の中の言葉をいくつか

 

多く書くとごっちゃになりそうなので、本の中に出てきた言葉をいくつか紹介して終わりに近づけようと思います。

 

これは、タケシが手紙に書いたこと。

 

大切なのは想像力です。

信じることも想像力です。

 

 

これは、リュウの父親の言葉。

 

生きてて欲しかったんだ

 

生きててほしい……ずっと、ずっと、生きててほしい

 

生きるっていうのは、何かを信じていられるっていうことなんだよ

 

 

そしてこれは、エピローグでの言葉。

 

後悔は消えない。人生は、たとえ物語の中でも、すべてが思い通りにはならない。そこだけは譲れないし、そうでなければ、飽きもせず小説を書き続ける理由など、どこにある?

 

 

一つ一つ、物語を読んでいるからこそ心の中に入ってくる言葉です。

考えていて、自分の想像力を試されるような感じも少ししましたが、基本的に重いテーマなので、下手に一言にはまとめられません。

「助けることはできなくても、救うことはできると思うよ」の言葉を作中に残してくれたのは、この話に希望が欲しかったからでしょうか。

 

 

最後に…:読んで後悔したことが一つだけ!

 

 読んでいて、後悔した点が一点あります。

この本の中には、重松作品の他の登場人物がたくさん出てきます。

正直、少し前まで敬遠していた重松作品のため、ちゃんと記憶にあるのは直近で読んだ『きみの友だち』しかありません。

 だからこそ、これは重松作品を多く読んでいれば「あっ!この人!」という気づきがその分多く得られる本だと思います。

今までに会ってきた登場人物の未来の姿が、少し覗けるかもしれませんよ!

 

 また、重松作品以外にも色々な作品が出てきます。

私は知らないものも多いと思うのですが、

梶井基次郎の『檸檬』と、映画の『ET』(多分…)には気づきました!

これはなんかの設定を借りているのかな?といった現実離れ感もあったので、多分そう感じたところは他の作品をオマージュしているんだと思います。

 

なかなか救われない物語ではありましたが、エピローグに書かれている経緯を読めば、その意味では救いが見つかるような気もしました。

切ない物語ではあるけど、読んでいて色々と考えさせられる作品でした。

 

 最後までお読みくださりありがとうございました。少し本のイメージがマイナスに傾いていないか、それが心配です。どんな人に読んでもらいたい、と言えればいいのですが、それも少し難しいというか、思いつかないので、興味を持った方は手に取っていただけると幸いです。

一気読みした漫画は?:1980年代のもの!

今週のお題「一気読みした漫画」

 

 こんにちは。今日は月曜日ですね…。なんかもう、最近時間の流れが早くて曜日感覚が狂っています(笑)。毎日本を読んだり、勉強をしたりと、自分の好きなことをやっているからですかね。楽しいです!

 

 今週のはてなブログのお題は、「一気読みした漫画」と言うことになっています。

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目次

 

 

 

一気読みした漫画紹介

一気読みした漫画…

一気読みってどこまでが一気読みなんでしょうか…。

「一気」と言うのが「途中で休まずの物事をする様」とあったので、

間にご飯やお風呂、睡眠を挟まず、1日の間に最低一つのシリーズを読み終わったこと、と言う風に自分の中で考えます。

 

そうすると、初読で一気読みしたのが

のシリーズでしょうか。暇なときに休まずずっと読む、と言う意味合いなら、戸川視友さんの『白のフィオレンティーナ』『海の綺士団』末次由紀さんのちはやふる東宮千子さんの『いとしのシェリー』、、、

枚挙にいとまがないです。

 

 ただ、大抵勉強や他にやることが終わって、読み始めると、

ご飯を食べなければいけなくなったりお風呂に入らなければいけなくなったり、寝なければいけなくなったり…と、

あまり一気読みすることはできないんですよね。

 

 なので、上にあげた3作の一気読みリストの中で、川原泉さんの分は3巻なので多くはなく、一気に読むことができたものです。

やっぱり巻数が少ないと、もう全部終わらせようと言う気持ちもいつもより多く出てきます。

 

『メイプル戦記』は、プロ野球セ・リーグに誕生した7番目の球団を描いている漫画です。

その球団「スイート・メイプルス」は、日本初の女子プロ野球チームでした。

札幌を本拠地とするメイプルスは、監督に広岡真理子を迎え、個性豊かな女性選手たちと優勝目指してペナントレースに突入する!…と言う話です。

 この広岡真理子監督についての漫画も他にあり、私はそっちを読む前に『メイプル戦記』を読んでいたので、

広岡監督のメイプルスに来る前の活躍を読めた時は嬉しかったです!

 

 昔の漫画でもあるため、女性を軽視する発言を登場人物が作中でしていたり、LGBTQ+に関する差別的な表現も少し多いかな、と思います。気になるところもありますが、気にしない人なら普通に楽しめると思います。

私は、ストーリーが普通に好きだったのでとても楽しめました。ギャグのような、ファンタジーのような、かなりぶっ飛んだ作品でもあるのでもし見つけたら、オススメです。その前に、広岡監督の最初の作品甲子園の空に笑え!も読んだら面白いかもしれません。

 

さいとうちほさんの『円舞曲は白いドレスで』は、このシリーズで全4巻。続きのシリーズや外伝も入れて全9巻(本編は全7巻)でした。

これは、前に母方の祖父母の家に行った時に叔母が「この袋の中の漫画で欲しいのあったらあげるよ」と言われ、どれにしよう…とめくっていたら一気読みしてしまっていた漫画です

普通に、せっかく旅行行っているんだから後にしとけばいいのに…とも思いましたが、結局は面白い作品には負けてしまいますね。

 この作品、読んだことある方いらっしゃいますか…?恋愛漫画が好きなら普通に楽しめる作品だと思います。将臣さん派かサジットさん派か、それとも龍一さん派かで話してみたいです…(笑)

 

 

1980〜1990年代の漫画、名セリフが続出です!

 ここにあげたものはほとんど恋愛漫画ですが、少し世代的には古いのかな?小さい頃は学童にある『ちゃお』とか読んだこともありましたが、

家にあるものに引っ張られることが多いので、読む漫画は自分の親世代のものであることも多いです。

 だいたい親が読んで好きだったもの、楽しかったものが家に残っているので、読む漫画も名作だったり、面白かったりする確率が非常に高いです。

どの話にも名シーンがあって、名セリフも多くあります。こう言うセリフって、読んでいてどんどん惹きつけられていくんですよね。

それぞれのキャラもすごい立っているし、シーン設定とかも面白いんです。

 

 一回このブログでも言ったことがありますが、私が好きなのは『白のフィオレンティーナ』のミケランジェロです。

ミケランジェロ自身が超天才なので、そんな天才な彼の口から飛び出す上から目線のセリフがかっこいいです…。

ことごとく偉そうで、ことごとく上からです。

 

フィオレンティーナに対して

「俺が競うにふさわしいと判断した時には、俺は絵を描きます。命を賭けても超えられない頂があることを、もう一度あの娘に教えるるために」

 と言ったり、「頂点に君臨するでしょう」とか「絵画は求められる技術が平易すぎて」とか、印象に残るセリフがたくさんあります。

 このシリーズのみではなく、

多くのシリーズ、漫画においてかっこいいセリフや面白いセリフがたくさん飛び出すので、読んでいて楽しいです。

 

 

好きな漫画家さん3選!

好きな漫画家さんが私は何人かいて、それが

  • もぐら さん
  • 戸川視友 さん
  • 川原泉 さん

です。

もぐらさんは、県民性についての漫画を読んでからハマり、今ではもぐらさんのサイトをほとんど毎日チェックしています。

mogura45.sakura.ne.jp

 

 戸川視友さんは、先ほどもあげた『白のフィオレンティーナ』や『海の綺士団』がすごく好きで、よく読んでいました。白フィはデータで持っているのですが、海の綺士団はデータを損失してしまい…。

 今年の正月セールで、近所のBOOK-OFFに行った時に海の綺士団シリーズを10巻発見!!!

もちろん10巻全部買ったのですが、あのシリーズは12巻シリーズなんです。

めっちゃ盛り上がっているところで終わっているのですが、残念ながら出版社に問い合わせてももう発行していないと言うことで、古本屋さんで見つけるのを気長に待っておきます。

 

 川原泉さんは、家の本棚にも何冊もあります。単純に叔母や母が好きだった、というのもあるのですが、少女漫画というジャンルの中ではかなりギャグが多いんじゃないかな…とも。親が持っているものしか読んでなく、すべて読んだわけではないので一概に好きとは言えないかもしれませんが、今まで読んだものはかなり楽しめました!

 

 

最後に…他にも色々な漫画読んでみたいです!

友達からは、あまり漫画を読まなさそうとか言われることもよくあるのですが、漫画大好きです。

普通に読んでいて笑えるし、泣けるし、感動できるし、漫画もちゃんとした物語です! 

 

 今時の漫画は、『図書館戦争』の漫画版か、もぐらさん、と言う漫画家さんの漫画、そして他のいくつかのシリーズしかあまり読みません。自分で買ったことのあるものもいくつかありますが、もう追っていないので、いつかBOOK-OFFでまとめて買いたいです!

今一番読みたいシリーズは、『ハニーレモンソーダ』ですかね。

SnowManのラウールさん主演で実写化されるので、原作が好きで興味がある人は是非!

ハニレモは、友達が何人か漫画を買っていたので、感想を聞くのが楽しみです。

 

…ということで、ゆる〜く好きな漫画、漫画家さんについて書いてきました。

ここに書いていないものの中でも、『信長のシェフ』や『スラムダンク』、『孔明のヨメ』など、いろいろ好きな漫画はあるので、一つに絞って書くのはとても難しかったです。あ、この漫画知ってる!というのがもしあったら、嬉しいです!興味を持ったものがあったらぜひ読んでみてください!

 

 最後までお読みくださりありがとうございました。この頃は漫画を勧められることも増えてきたので、いろいろ読んでいきたいです!