こんにちは。昨日、読みたい本が地味に終わらなくて、結局日付を超えるまで本を読んでしまいました。とても面白い本ではありましたが、さすがに眠い…。無理は禁物です。
今日は、太宰治の本の感想を書いていきます。書いていくのは、新潮文庫の短編集「ヴィヨンの妻」に収録されている『父』と『母』です。
目次
短編集紹介、著者紹介
それでは、まずは短編集紹介、著者紹介など。以前までの記事からコピペします。
短編集は、新潮文庫の『ヴィヨンの妻』です。全部で8編が収録されています。いずれも太宰の晩年に書かれた作品で、「死の予感」が読み取れるものも多くあります。
このうち、7作目の「おさん」は以前ここで紹介したことがあったので、7作の感想を書いていこうと思います。
著者紹介も。
著者は、太宰治です。太宰はもう有名ですね。
教科書題材でも『走れメロス』は定番ですし、『人間失格』という作品も題名のパワーがすごいので印象に残っている人も多いのではないでしょうか。
青森県出身の作家で、戦前から戦後ぐらいにかけて活動しています。自殺未遂や薬物中毒などかなり破天荒というか、クセの強い人生を送ってきています。
この前、太宰治読了のまとめ記事も作ったので、興味のある方は是非そちらものぞいてみてください。
最初、この『父』と『母』のあらすじを書き、その後で感想を書こうと思っていました。
しかし、どちらも短い作品の上、あらすじを書くよりも十数ページを読んでもらう方がぜったいにいいと思うので、あまりあらすじは書かずに感想を書いていこうと思います。
物事がどんどん流れていくので、あらすじは書きにくく、少ししか書けない気がするからです。
『父』感想:太宰の叫びのようなものがありました
それでは、『父』の感想を。
この話は、聖書のアブラハムとイサクの物語から始まります。
のっけから聖書を出してきて、
子供を身ごもっている上に他にも二人の子供がいる妻をないがしろにして自分だけが放蕩していることに
「義」の世界を持ち出して言い訳をしています。
のっけから、
洋の東西を問わず、また信仰の対象のなんたるかを問わず、義の世界は、悲しいものである。
と言っていますが、だからと言って許されることをやっているわけではないだろう、という感想が出てきます。
えーと、つまり、聖書にも親のために子が犠牲になる例があるんだから、俺のために周りが犠牲になるのも…と言った感じでしょうか?
正直、一緒にするもんか?とも思いますし、それは言い訳にもならないのでは…と思いました。
本当に、読めばわかる駄目男なんです。
これは太宰が自分自身のことを書いたのでしょうか。実際の日記ではなくても、心情などは太宰のものなのでは、と思っています。
自分でも、自分がやっていることの異常さがわかっているんでしょう。
周りにどんなに迷惑をかけているかもわかっているんでしょう。
だけど、それでも自分の知っている快楽だったり、妙なプライドだったりを超えることができず、結局は身重の妻の願いを無視して、他の女と出かけています。
なんというか、自分で堪えがわかっていてもそこにたどり着けない感覚。そして、その行動を肯定するために聖書経由で「義の世界」と言いだす姿勢。それで「親は無くとも子は育つ」とか、流石に駄目男ですよね…。
可哀相になってくるというか、もしもこんな人が近くにいたら憐れんでしまうと思います。
こども、って言っていいんでしょうか。
自我が強すぎると、その人は周りに合わせることを覚えられません。子供も自我が強いですし、さらに変な理由づけによって正当化しようとする。主人公がこどものようだと思いました。
これ、「太宰治」っていうネームバリューがなかったら読んでも「最悪な人」としか思わないと思います。
ネームバリューがあっても、「最悪」に変わりはありませんが、
太宰がどういう価値観だったのか、自分のやっていることについてどう思っていたのか。
そう言ったことを知るのは面白かったです。
この、子供を3人(一人は腹のなか)連れて寒いなか配給に出かけている妻の願いを無視して、家を出て他の女と一緒に遊ぶのは実際のエピソードなのでしょうか。
もしこれが実際の出来事だとしたら、流石に奥さんが可哀相です…。駄目男だと走っていましたが、そこまで駄目男だったとは、太宰。
この本を読んでいて、一番印象に残った文章はこの部分です。
生まれてすぐにサナトリアムみたいなところに入院して、そうして今日まで十分の療養の生活をしてきたとしても、その費用は、私のこれまでの酒煙草の費用の十分の一くらいのものかもしれない。実に、べらぼうにお金のかかる大病人である。一族から、このような大病人が一人出たばかりに、私の身内の者たちは、皆痩せて、一様に少しずつ寿命を縮めたようだ。死にゃいいんだ。つまらんものを書いて、佳作だの何だのと、軽薄におだてられたいばかりに、身内の者の寿命を縮めるとは、憎みても余りある極悪人ではないか。
死ね!
この部分、もしそれまでがフィクションだったとしても、この部分だけは太宰の実際の言葉だろうと思います。
太宰の実際の言葉であって欲しいとすら思ってしまいます。
自分のことを憎んで、嫌悪感を持ち、それでも遊ぶことから逃げられない。逃げようとしているのか、それとも逃げることを無意識に諦めているのか。
駄目男なのに変わりはありませんが、この部分はとても印象に残りました。
顔真卿の書物で、「祭姪文稿」という書があります。
これは、死んだ身内のことを悔やんで書いたものです。一部で感情が溢れ出し、筆跡が荒々しくなっていることでも有名なもののうちの一つです。
何となく、それに似ているな、と思いました。
太宰はこういうことを思って、こういう文章を書いていたんですね。
もしかしたら、この文章も作られたものかもしれません。狙って書かれたものかもしれません。だけど、感情が爆発しているように感じ、とても興味深かったです。
『母』感想:少し早すぎたかも…また読み直したいです
さて、『母』の感想に移ります。
この本は、正直私は余りよくわかりませんでした。それでも、面白いことは面白かったです。
『父』が父親としての太宰を描いたであろうものだったので、『母』も太宰の妻か、太宰の母親をかいたものかと思っていました。
ところが、この話は全然違いました。港町の旅館に泊まった時の出来事を綴った話でした。たぶんこれはエッセイのような、実話なんだと思います。
キーポイントは「戦争」なんでしょうか。
戦争のすぐ後だからか、前に兵隊にいた男性とか、鴎外の軍服姿の写真とか、戦争中の出来事を当たり前のように話していて、少しなれませんでした。戦争ってやっぱり実際に起こったことなんでしょうね。
昼に、そう言った思い出話のようなものを話していた時、彼らは戦争に対して苛立ちのようなものを覚えていたんだと思います。
反発心というか、とにかく嫌だった、というような気持ちが現れていた気がしました。
しかし、夜に隣室の人が話しているところを、太宰は偶然耳にしました。
若い世代が戦争に行くこと。青年の母親が同年代と知り、「……」となる女中。最終的にはお母さんのように青年を気にかけます。
その一件は、ある旅館で起きた偶然の出会いというか、少ししんみりする話で済むと思います。
また、「聖母を明るみに出すな!」という言葉もも、それまでの軽妙な語り口に比べると少し変わっていて、印象には残りました。でも、何となくその言葉の意味がわかるような気はします。正直、何でそんなに言ったのかの意味は正確にはわからなかった…。
太宰にとってはかなり印象に残る出来事だったのかもしれませんが、私には余りこの話に込められた意味がわかりませんでした。
太宰が「きゃっと叫びたいくらい」と書いてある部分は、「ああ私もそういうことある、わかるわ〜」となって、そこが一番面白かったかもしれません。
この作品の名前が、『母』になるんですね。もう少し大きくなってから読めば、良さがよりわかるようにはなるかもしれません。
まとめ
ということで、今回は『父』と『母』の感想を書いてきました。
どちらも面白かったものの、私は『父』の方が好きでした。もちろん話の救われようとかは、『母』の方が全然良かったです。でも、読み直したときに印象により残ったのは『父』でした。
『母』は、「短編集の中でも特に好きな作品」といっている人たちが見てきた中でも何人かいます。だから、多分私はこの作品をまだしっかり理解できていないんだと思います。だから、また少し時が経った後に読んでいきたいです。
そうすれば、この話の魅力を見つけられるのかな?
最後までお読みくださり、ありがとうございました。次は『ヴィヨンの妻』の感想だと思います。この作品は面白かったですね…。しっかり感想書けるよう頑張ります!