こんにちは。私がISAK(私のいく高校)に行くまで、あと2週間ほどになりました。色々と楽しみなこともあり、同時に不安なこともあり…といった感じです。まあ、結局は楽しめれば良いので、頑張っていきたいと思います。
今日は、太宰治の新潮文庫短編集『ヴィヨンの妻』より、『家庭の幸福』の感想を書いていきます。
短編集の紹介、著者の紹介等は今までの記事からのコピペとなります。
目次
短編集紹介、著者紹介
それでは、まずは短編集紹介、著者紹介など。以前までの記事からコピペします。
短編集は、新潮文庫の『ヴィヨンの妻』です。全部で8編が収録されています。
いずれも太宰の晩年に書かれた作品で、「死の予感」が読み取れるものも多くあります。
このうち、7作目の「おさん」は以前ここで紹介したことがあったので、7作の感想を書いていこうと思います。
著者紹介も。
著者は、太宰治です。太宰はもう有名ですね。
教科書題材でも『走れメロス』は定番ですし、『人間失格』という作品も題名のパワーがすごいので印象に残っている人も多いのではないでしょうか。
青森県出身の作家で、戦前から戦後ぐらいにかけて活動しています。自殺未遂や薬物中毒などかなり破天荒というか、クセの強い人生を送ってきています。
この前、太宰治読了のまとめ記事も作ったので、興味のある方は是非そちらものぞいてみてください。
『家庭の幸福』あらすじ
それでは、『家庭の幸福』のあらすじをまず書いていきます。
この『家庭の幸福』は、酒もやればタバコもやって、一家を経済的な面で困らせている男「私」が主人公です。いわゆる太宰の女語りとは別に、男が一人称で話しています。
彼は、もともと「官僚」と言う言葉にそこまで悪いイメージは持っていませんでした。役人は、
その大半、幼にして額を好み、
長ずるに及んで立志出郷、もっぱら六法全書の糞暗記に努め、
質素倹約、友人にケチと言われても馬耳東風、
祖先を敬するの念厚く、亡父の命日にはお墓の掃除などして、
大学の卒業証書は黄色の額縁にいれて母の寝間の壁に飾り、まことにこれ父母に孝、
兄弟には友ならず、朋友は送信せず、お役所に勤めても、ただもう我が身分の大過無きを期し、
人を憎まず愛さず、にこりともせず、ひたすら公平、紳士の亀鑑、立派、立派(後略)
少しは威張ったって構わない、と思っていたのです。
ところが、ある日の街頭演説をラジオで聞いている時、その考えが変わりました。
ある秋の日、「私」は例によってよそで二、三夜飲み続け、家は無事かとドキドキしながら帰宅していました。帰ってみると、そこには新しく手に入ったお金で子供のために新しく買ったラジオが。
「私」は酒とタバコと美味しい副食物以外には極端に倹約家で、ラジオの出費など大浪費。ですが、外でずっと飲んできた弱みがあるため怒れません。妻にも、「お父さんの一晩のお酒代にも足りないのに、大金だなんて、……」と呆れられます。
そこからあまりラジオを聞こうとはしなかった「私」ですが、病気で寝込んでいるときにラジオをずっと流していました。
音楽などお聞き、予想よりもいいじゃないかと思っていたその日の夜、
街頭録音という役人と民衆が街頭で互いに意見を述べあう趣向のものを「私」は聞きました。
寝床の中でそれを聞き、彼は逆上します。
中には泣きながら詰め寄る民衆もいるというのに、役員はいやらしい笑いのまま厚顔無恥の一般論を丁寧に繰り返すばかり。つまり何も言っていないのと同じです。
そのラジオから、彼は想像を膨らませてゆきます。そのラジオを楽しみにしているのは誰か。街頭録音が流れる日、あの役人の家族はどう過ごしているのか。品行方正な家族とともにあの役人は放送を聞き、自分の快調に録音された答弁を聞きます。大過なし。成功。家族の顔も輝いています。
家庭の幸福、家庭の平和。うるわしい風景…。
ここまで考え、太宰の空想は一転します。
主人公は、東京に住む津島修二(迷惑をかけるわけにいかないから「私」の戸籍名を使うと言っていました)。
彼は、町役場で戸籍係として毎日ニコニコ勤めていて、今までも品行方正に生きてきていわゆる欠点と言ったものがパッとは見当たらない人間。なんと彼に宝くじが当たりました。彼は慌てず騒がず、家族のためにサプライズにしようと考えラジオを買い、それを家に送ってもらうように頼みます。流石に内心ウキウキしていて、今日は早く家に帰ろうと。仕事終わり間際に一人の女性が駆け込み、出産届を提出しようとしますが、津島は早く家に帰るためにもう終業時間だからと問答無用で帰宅する。その女性はやんごとなき事情があったため、その日に困窮極まって自殺しますが、津島は家で家族と団欒をし、次の日にはもうその女性のことなど忘れています。
この短編の最後の文は、こう締めくくられています。
曰く、家庭の幸福は諸悪の本。
『家庭の幸福』感想:「私」はなんでこの本を書いたの?諸悪のもとにならない幸福はあるの?
さて、この本の感想を書いていきます。
まず、この短編は多分太宰の私小説的な役割も持っているのでしょう。
「私」の家族に出版社から原稿料が来たということや、自分を「芸術家」となぞらえていること。
さらには奔放な生活や、「私の戸籍名を与える」と言って津島修二(太宰の本名)を出しているところから、「私」は太宰だと推測できます。
また、この話自体も太宰が体験したものかもしれません。ですが、これについてはあまりしっかりとは断言できないです。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
もしかしたら、どこかの文章に太宰の体験であると書いてあるのかもしれませんが、私はどうやら太宰の人生に振り回され気味だな、と自分で思っています。
太宰の人生はそれだけでかなりのドラマ性があり、それを話に結びつけたくなるのもわからなくはありません。
だけど、あまりに太宰という筆者に食いつきすぎると、話の内容が少しずつ頭の中で都合のいい方へと受け取られていくような気もします。
だからと言って、簡単に太宰の人生を忘れられるわけではないから、今私も少し困ってはいるのですが…(笑)
とにかく、この本は「太宰」の話ではなく、「私」の話だと思って読んでいきたいです。
その上で、この短編は「私」の盛大な言い訳話だと思っています。
「私」は酒とタバコに奔放で、それに関する浪費は惜しみません。
その代わり、自分以外が使う金だったり、酒・タバコ・その他の副食品以外に使われる金だったりには敏感すぎるほど敏感です。
「家庭の幸福」とは程遠い家庭を作るのが「私」です。
その「私」にとって、公務員(役員、政治家)の作り笑顔と、公務員の厚顔無恥な要領を得ない解答はひどいものでした。
今までは、多少威張っていてもその他の面で努力したり辛酸を舐めたりしているのだから、許してやれ、という立場。
ですがラジオで聞いた街頭演説では、民衆が泣いてまで言っていることに、通り一遍の解答しかしません。
そういった公務員は、品行方正な家族が待っていて、しっかりとした家があり、彼にとっては幸せな毎日を送っているのだろう。大きな間違いもなく、特に問題も起こさなかったと満足しているのだろう。
でも、その「大過無し」の裏にどんだけの人の涙と苦労があるのか。
そこから、「私」の想像は町役場戸籍係の「津島修二」に及びます。彼の「家庭の幸福」のために、やんごとない事情のある人が救いの手を断ち切られ、死ぬこととなった。
つまり、一部の人の「家庭の幸福」のためにより辛い思いをする人たちがいるのです。
ここから先は文章にはなく、私の勝手な想像です。
でも、読んでいて「家庭の幸福は諸悪の本」には、「だから家庭を幸福にしない自分は悪くない」という思いに近いような主張が含まれていると思いました。
自分は家庭を幸福にしていないけど、家庭の幸福のために誰かを被害者にしていないから、問題はない。
そう、言い訳をしたいのでは。
別に、「私」が本当に自分に非がないと思っているかは知りません。というか、本の中で罪悪感を感じている部分があるので、逆に自分が悪いことはわかっているのでしょう。
でも、自分が悪いということをわかった上で、それでも自分を擁護したいんだと思います。
そんなこと、誰でもやります。私もやったことがあると思います。
だから、「私」を真っ向から批判はできません。
だとしても、「私」は格好悪いな、と思いました。
そんなに自分のやったことに、変な理由をつけなくても。
これは、『おさん』に出てきた革命を理由に心中したあの格好悪い男と似ている気がします。
なんでこんな、悲しい理由をつけるんでしょうか…。でも、『おさん』に比べたら『家庭の幸福』の「私」は、自分のやっていることを理解した上で、それでも少しばかりの言い訳をしなければいけないのでしょう。
どこか悲しいというか、哀れになってきます。こんなに意味をつけて、楽しいのでしょうか…。
という、「私」についての感想はここまで。
「家庭の幸福は諸悪の本」。
それでは、なんの幸福なら悪のもとにならないんでしょう。
うーん…
幸福、悪、難しいですね…
とりあえず、適度な幸福なら悪のもとにならないのかな?
いや、でも幸福になることをためらうのってなんか矛盾しているというか、変な気が…
確実に自分の幸福で他の人がその幸福の絶対値よりも大きい絶対値の苦労を味わうのなら、少しは遠慮しておいたほうがいいのかもしれません。
だけど、家庭の幸福って悪いことなのかな…。あまりそうとは思えないんです。
結局、「私」のような放蕩者が減れば、幸福というか一般的な家庭の数は増えていきますよね。なら、別に特別に幸福にこだわらなくてもいいのでは…。
どうしよう、この「家庭の幸福は~」について書いてみようとしらら、結果的に思考がまとまりませんでした。
とりあえず、人に被害を与えることが確実な幸福は考慮してから享受するなら享受して、ささやかな幸福だったり自分で納得できる幸福は享受する?
そもそも幸福ってどこからどこまで?
難しいですね。
ちょっと頭がこんがらがりそうなので、とりあえずやめておきます(笑)
最後に:時代が感じられて面白かったです
ということで、これで私の『家庭の幸福』の感想は終わり。なんか尻切れとんぼになった感はありますが、それでもまあ満足ということで!
やっぱり、この話は太宰についての話なんでしょうか…。
というか、今までもなんとなく感じてはいましたが、やっぱり太宰は戦争の時期に生まれた人なんですよね。
ラジオに関する記述で、「戦時中は〜」と言っていました。
落語家川柳川柳(かわやなぎせんりゅう)という人の演じる『ガーゴン』に、ラジオで流れたりしていた戦時下の歌が多く出てきます。
こういった歌を、太宰も聞いていたのかと思うと、時代と作者と作品が結びついた気がして興味深いです。
『ガーゴン』もめっちゃ面白いので見てみてください!私は、あの落語のおかげで軍歌を少しばかり覚えました(これは自慢できることなのか…???)。
時代もあり、太宰の背景もあり、「私」のいた環境もあり、太宰と「私」の性格もあり、色々な視点から考えようとすると面白いです。
次読むときは、「なんの幸福は諸悪のもとにならないのか」についてもう少し考えてみたいです!
最後までお読みくださりありがとうございました。身近にも太宰に中学生時代ハマっていた人がいるのですが、やっぱり太宰って面白いですよね…。読み返すと本当に興味深い場面がいっぱいあります!